こんにちは、\イッカク です。/
今回の記事は観測制民主主義シリーズの6回目-2。
(設計についてAIアトラッシとの交信)
政策形成の記録を観測する
――「記録がなければ、
民主主義は監査できない」
「記録されないこと」も観測対象にする
ここで、観測制民主主義はもう一段踏み込む必要がある。
何が記録されているかだけではなく、
何が記録されていないのかを見る。
なぜなら、
政策形成において重要なのは、
必ずしも残された文書だけではないからである。
本来存在していたはずの比較検討。
本来確認されるべきだったリスク。
本来記録されるべきだった反対意見。
本来残されるべきだった修正履歴。
それらが存在しない場合、
「本当に検討されなかった」のか、
「検討したが記録されなかった」のか、
「記録されたが公開されていない」のかを区別する必要がある。
ここを一括して「資料がありません」で終わらせてしまえば、
観測はそこで止まる。
しかし、「なぜ、その記録が存在しないのか」という問いを置けば、
別の観測が始まる。
記録は「国家の記憶」である
国家が政策を形成するということは、
社会に対して大きな影響を与える意思決定を行うことである。
その意思決定が、
担当者の頭の中だけで行われ、
担当者が異動した瞬間に消えてしまうなら、
国家は自らの意思決定過程を保持できない。
記録とは、単なる過去の保存ではない。
国家が「なぜ、そう判断したのか」を
未来の社会に説明するための記憶でもある。
担当者が変わっても、政権が変わっても、時代が変わっても、
「当時、何が分かっていたのか」
「どのような選択肢があったのか」
「誰が何を判断したのか」を確認できる。
それが行政記録の持つ民主主義的な意味ではないだろうか。
「説明責任」は、記録によって初めて成立する
政治家や行政に対して、
「説明責任を果たしてください」という言葉が使われる。
しかし、説明責任には前提がある。
説明できるだけの記録が存在すること。
これがなければ、説明は記憶や印象に依存してしまう。
「あのときは、そう判断した」
「総合的に判断した」
「専門家の意見を踏まえた」
という説明だけでは、第三者による検証は難しい。
だからこそ、説明責任を本気で求めるのであれば、
説明の内容だけではなく、
説明を裏付ける記録そのものを観測しなければならない。
説明責任とは、単に「説明すること」ではない。
第三者が検証できる形で説明できること。
そこまで含めて、初めて責任と言えるのではないか。
観測制民主主義は「記録」を見る
ここまで見てくると、
観測制民主主義の対象が少しずつ明確になってくる。
政策の内容だけを見るのではない。
政策を作った人だけを見るのでもない。
政策を決めるまでの工程を見る。
そして、その工程を後から再構成できるだけの
「記録」が存在するかを見る。
つまり、政策形成 → 意思決定 → 記録 → 公開 → 検証という
一連の回路を観測するのである。
この回路のどこか一つが欠けても、民主主義の監査能力は低下する。
政策が存在していても、
根拠が追えなければ監査できない。
根拠があっても、
意思決定者が分からなければ責任を問えない。
記録があっても、
工程を再構成できなければ検証できない。
公開されても、
第三者が検証できなければ監査にならない。
だからこそ、民主主義を
「選挙で代表者を選ぶ仕組み」だけで捉えるのではなく、
権力が行使された後、
その工程を社会が観測し、
検証できる仕組みとして捉える必要がある。
「見える国家」は、強い国家である
国家にとって、本当に強い状態とは、
「誰にも疑われないこと」ではない。
むしろ、疑われても、検証できること。
批判されても、記録によって説明できること。
政策判断に誤りがあっても、
どこで判断を誤ったのか追跡できること。
そして、必要なら、
その記録をもとに政策を修正できること。
これこそが、民主主義国家の強さではないだろうか。
「記録があるから、失敗しない」のではない。
記録があるから、失敗を発見できる。
発見できるから、修正できる。
修正できるから、次の政策形成に学習結果を反映できる。
ここに、国家の自己修正能力が生まれる。
次に観測するもの
⑤では、「政策は、誰が、何を根拠に決めたのか」を観測した。
⑥では、「その意思決定の過程は、
後から追跡できる形で記録されているのか」を観測した。
ここまで来ると、次の問いが自然に浮かび上がる。
「では、その記録は、誰が見ることができるのか。」
記録が存在しても、
公開されなければ社会は観測できない。
公開されても、検索できなければ発見できない。
発見できても、理解できなければ検証できない。
そして検証できても、
異議を申し立てる回路がなければ、
観測結果は政策に反映されない。
つまり次に見るべきなのは、「記録」から「公開」へ。
そして、「公開」から「市民による検証」へ。
観測制民主主義は、そこまで回路を追わなければならない。
民主主義とは、権力を「見せてもらう」制度ではない。
権力がどのように行使されたのかを、
社会が自ら観測し、検証できる制度である。
そのために、まず必要なのが――
「記録」である。
