観測制民主主義⑦ ナラティブは、どのように制度へ変換されるのか ――「誰が、何を決めたのか」から、その先を見る

観測制民主主義

こんにちは、\イッカク です。/

今回の記事は観測制民主主義シリーズの7回目。
(設計についてAIアトラッシとの交信)

ナラティブは、どのように制度へ変換されるのか ――「誰が、何を決めたのか」から、
その先を見る

「民営化」という言葉から、いったん離れてみる

今回、水道事業をめぐる一つの動画を観測する機会があった。

そこでは「水道民営化」という強いナラティブが提示されていた。
最初にそれを聞けば、私たちは
「民営化=公共性の喪失」という方向へ意識を誘導されやすい。

しかし、観測する側がそこで結論を決めてしまえば、
それもまたナラティブに乗ったことになる。
そこで、いったん言葉を外して、
政策形成の工程だけを見てみることにした。

まず、確認できる事実を並べてみる

2014年5月19日、
経済財政諮問会議・産業競争力会議の合同会議で、
竹中平蔵氏がコンセッションについて説明している。

そこで提示された数値目標は、
空港6件、上水道6件、下水道6件、有料道路1件だった。

さらに資料には、
コンセッションをインフラ関連企業や投資家にとって
「新規のビジネスチャンス」と位置づける記述もある。

ここまでは、評価ではない。
「竹中氏が政策形成の場に参加していた」
「具体的な数値目標が提示された」
という観測可能な事実である。

その後、政府はコンセッションを政策として推進し、
水道法改正など制度整備を進めた。

そして現在、ウォーターPPPという形で、
水道・下水道・工業用水道について
官民連携を拡大する政策が進められている。

内閣府自身が、
ウォーターPPPを「コンセッションに段階的に移行するため」
の官民連携方式として位置づけている。

つまり、
政策会議への参加

数値目標の提示

制度整備

民間事業者の参入
という工程そのものは、
観測対象として押さえておく価値がある。

しかし、ここから先は慎重にする

では、この事実から、
「竹中氏が企業利益のために水道民営化を仕掛けた」
と結論づけてよいのだろうか。

それは別問題である。

政策形成に関与したことと、
特定企業の利益を目的として
政策全体を設計したことは同じではない。

逆に、民間企業が実際に事業へ参入したことだけを理由に、
「政策形成への民間の影響には問題がない」とすることもできない。

必要なのは、その間の工程をさらに観測することだ。

誰が提案したのか。
どの会議で議論されたのか。
どの資料が根拠になったのか。
誰が制度設計を担当したのか。
どのような数値目標が設定されたのか。
その目標は、なぜその数字だったのか。
そして最終的に、誰が事業者として選ばれたのか。
これを一つずつ追えばよい。

ところが、観測してみると予想外のことも起きる

今回、実際に宮城県の
「みやぎ型管理運営方式」を見てみた。
2022年4月に始まったこの方式は、
県が施設を所有し、
民間事業者が浄水場などの維持管理・改築を担う。

水道管については県が管理責任を持ち、
水道料金も民間企業が自由に決定する仕組みではない。

さらに、県・民間事業者・外部有識者による
三段階のモニタリングも設けられている。
そして、導入から3年を経た2025年10月時点で、
県は事業が概ね計画通り進み、20年間の事業費削減見込みを約356億円としている。

2023年度についても、
県は計画を上回る削減実績を公表している。

もちろん、これは県自身による評価であり、
それだけで制度の成功を確定できるわけではない。

長期契約の妥当性、
更新投資、
監督能力、
将来の料金、
民間事業者への依存度などは、
これからも観測する必要がある。

それでも、少なくとも私自身の予想とは違った。
「民営化」という言葉から想像していたほど単純に
「公共が手放した制度」ではなかった。

ここで、観測者自身も一度戻る

これは重要なことだと思う。
観測者もまた、最初に持っていたナラティブに引っ張られる。

「民営化だから危険だ」と思えば、
危険な証拠ばかりを探してしまう。

反対に、「官民連携だから効率的だ」と思えば、
都合の良い数字ばかりを拾ってしまう。

だから、ナラティブを生成してしまったこと自体を恐れる必要はない。

「あ、ここから先は観測ではなく解釈になった」
そう気づいたら、最後に確認できた事実まで戻ればいい。

そして、そこからもう一度観測を始めればいいのである。

これはCOVID-19の時にも使える観測方法ではないか

この視点に立つと、COVID-19の予防接種をめぐる
政策も同じ方法で観測できる。

「ワクチンは危険だった」
「ワクチンは絶対に必要だった」

どちらのナラティブからも、いったん離れる。

政府の会議で何が議論されたのか。
どの政策目標が設定されたのか。
どの行政機関が何を実施したのか。
どの財政措置が講じられたのか。
自治体や医療機関には、どのような選択肢が与えられたのか。

そして、個人の選択環境はどのように変化したのか。
そうした工程を追っていく。
重要なのは、
「強制されたか、されなかったか」
という二択だけではない。

直接の命令がなくても、
制度や財政、行政運用によって選択環境が変わることはある。
そこを観測するのである。

ナラティブを監査するとは、ナラティブに反対することではない

今回、私が改めて感じたのはここである。

観測制民主主義は、
「政府を疑うための方法」でも、
「民営化を批判するための方法」でもない。

まして、「陰謀を暴くための方法」でもない。

何が事実で、
何が解釈で、
何がまだ検証されていない仮説なのかを分離する方法
である。

そして、その方法を使えば、
最初は疑わしく見えた制度が、
観測してみると「意外と合理的ではないか」という結論になることもある。

逆に、最初は良いと思った制度に、
後から重大な問題が見つかることもある。

どちらでも構わない。
結論を先に固定しないこと。

観測結果によって、自分の認識を更新できること。
それこそが、観測者に必要な条件なのではないだろうか。

政策を「完成品」ではなく「生成工程」として見る

これまでの観測制民主主義では、
「誰が決めたのか」
「何を根拠に決めたのか」を見てきた。

ここからは、さらに一歩進めたい。

政策という完成品だけを見るのではなく、
その政策がどのようなナラティブから始まり、
どの会議で言葉になり、
どの数値目標に変換され、
どの制度に組み込まれ、
最終的に自治体や国民の選択環境をどう変えたのか
を見る。

そして、その工程を監査する対象は、国だけではない。
地方自治体も、民間事業者も、
政策を語るメディアも、
そして情報を観測する私たち自身も対象になる。

なぜなら、
ナラティブは誰か一人の頭の中で完成するものではなく、
複数の主体の判断と制度を通過しながら、
社会の現実へ変換されていくからである。

だからこそ、
私たちは完成したナラティブに
賛成するか反対するかではなく、

「そのナラティブは、どの工程を通って現実になったのか」

を観測していきたい。

それが、「観測制民主主義」の次の段階である。


つづく。

タイトルとURLをコピーしました