観測制民主主義⑧ 「最後まで戦う」という言葉を監査する ―― 国家は何を守るために存在するのか

観測制民主主義

こんにちは、\イッカク です。/

今回の記事は観測制民主主義シリーズの8回目。
(設計についてAIアトラッシとの交信)

「最後まで戦う」という言葉を監査する
―― 国家は何を守るために存在するのか

「最後の一兵まで戦う」という話ではない

政治家、とりわけ総理大臣が戦争や防衛について語るとき、私たちは、その言葉の勇ましさや、あるいは過激さに目を奪われがちである。
最近も、高市総理の戦闘に関する発言について、「最後まで戦っていただく」という趣旨の言葉が取り上げられ、精神論として批判する議論が出ている。
しかし、観測制民主主義の立場から見るなら、問題はそこだけではない。
むしろ、もっと重要なのは、
「なぜ、総理はそのような言葉を発したのか」
ということである。
「最後まで戦うべきだ」という言葉を、単なる個人の精神論として受け取ってしまえば、議論は「戦うべきか、戦わざるべきか」という感情的な対立で終わってしまう。
しかし、国家を運営する立場から見れば、本来問われるべきなのは別のことである。
国家は、何を守るために存在するのか。

国家の目的と、戦闘の目的を混同してはいけない

防衛政策には、本来、いくつもの工程が存在する。
どのような脅威を認識しているのか。
その情報は何を根拠としているのか。
外交による回避は可能なのか。
経済・エネルギー・情報・インフラなど、軍事以外の手段は検討されたのか。
武力行使が必要だと判断した場合、その法的根拠は何なのか。
誰が決定し、誰が命令し、どのような条件で行動を開始するのか。
そして、最も重要なのは、
「いつ、何をもって戦闘を終了するのか」
ということである。
つまり、防衛とは「戦うこと」そのものではない。
戦闘は、国家目的を達成するための一つの手段にすぎない。
ところが「最後の一兵まで戦う」という言葉を国家運営の思想として受け入れてしまうと、いつの間にか、
「戦い続けること」そのものが目的化する危険性
が生まれる。
ここに、国家OSを観測する必要がある。

国家OSの目的関数は何なのか

これまで、このシリーズでは「政策」を完成した出力として見るのではなく、その背後にある入力、設計、判断、実行の工程を観測してきた。
防衛政策も例外ではない。
むしろ、防衛政策こそ最も厳格な観測が必要な領域である。
なぜなら、そこでは最終的に、人間の生命が失われる可能性があるからだ。
国家OSを単純化すれば、
国家目的

脅威認識

情報評価

政策判断

法的根拠

命令・実行

戦闘継続

停止・撤退・交渉

という流れになる。
ここで観測すべきなのは、最後の「戦闘」だけではない。
むしろ、
「この国家OSは、何を目的関数として設計されているのか」
である。
「勝つこと」なのか。
「敵を倒すこと」なのか。
「領土を守ること」なのか。
「国家の主権を守ること」なのか。
それとも、
「国民の生命と自由を守り、将来世代の選択可能性を残すこと」
なのか。
この違いは極めて大きい。

憲法は国家の目的関数を制約する

日本国憲法第13条は、すべて国民が個人として尊重され、生命、自由及び幸福追求に対する権利について、国政上最大の尊重を必要とすると定めている。
これは、単なる美しい理念ではない。
国家OSに対する制約条件として読むことができる。
国家には国家としての目的がある。
しかし、その目的を達成するためなら、個人の生命や自由を無制限に犠牲にしてよい、ということにはならない。
だからこそ、
「国家を守るために国民が存在する」のか、
「国民を守るために国家が存在する」のか。

という問いが重要になる。
「最後まで戦っていただく」という言葉を聞いたとき、私たちが観測すべきなのは、発言者の勇気や覚悟だけではない。
その言葉の背後に、どのような国家観が存在しているのか。
そこなのである。

「最後の一兵」は、国家OSの末端にいる

ここで、視点を変えてみたい。
「最後の一兵まで戦う」という言葉を聞いたとき、私たちはその兵士の勇気を考える。
しかし国家OSの観点から見ると、その兵士は巨大な意思決定システムの最終出力である。
その兵士が戦場にいるということは、その前段階で、
誰かが脅威を認定し、
誰かが情報を評価し、
誰かが政策を決定し、
誰かが法的根拠を確認し、
誰かが命令を出し、
誰かが戦闘継続を判断した、
ということである。
ならば、最後の兵士に「最後まで戦え」と言う前に、
「なぜ、その兵士が最後の一兵になったのか」
を監査しなければならない。
これは、兵士個人の覚悟を否定する話ではない。
むしろ逆である。
兵士の生命を尊重するからこそ、その生命を国家がどのような意思決定工程によって危険にさらすのかを、国民が監査できなければならないのである。

「戦うか、戦わないか」だけを問わない

ここで観測制民主主義の重要な原則が出てくる。
「戦うか、戦わないか」という二択だけを与えられてはいけない。
その二択が提示されるまでに、どのような選択肢が検討され、どの選択肢が排除され、誰がその判断をしたのかを見る必要がある。
外交はどうだったのか。
情報収集は十分だったのか。
経済的な圧力はどうだったのか。
エネルギー供給は確保されているのか。
同盟関係はどのように機能しているのか。
国民の避難計画は存在するのか。
重要インフラは防護されているのか。
戦闘を回避するための交渉経路は残されているのか。
そして、仮に戦闘に入った場合、
「何を達成したら終了するのか」
が明確になっているのか。
これらを含めて、初めて防衛政策なのである。

国家に必要なのは「最後まで戦える国」なのか

ここで、もう一つの問いが生まれる。
強い国とは、最後の一兵まで戦える国なのだろうか。
私は、そうではないと思う。
本当に強い国家とは、
戦わずに済む能力を持ち、
戦う必要が生じたときには合理的に判断し、
戦闘に入ったとしても目的と終了条件を失わず、
そして何より、国民を無意味に最後の一人まで追い込まない国家

ではないだろうか。
これは「弱腰」ではない。
むしろ、国家運営を精神論から制度論へ引き戻す考え方である。
戦争を始めることよりも、戦争を始めずに国家目的を達成すること。
戦闘に勝つことよりも、国家と国民の生存を維持すること。
そして、危機の中でも、
「止めるべきときに止められる国家」
であること。
それこそが、国家OSの強さではないだろうか。

発言を監査するのではない。その発言を生み出したOSを監査する

今回の発言を、単なる失言として処理してしまうこともできる。
「勇ましすぎる発言だった」
「精神論だ」
「戦争を煽っている」
そうした批判も、それぞれ意味はある。
しかし、観測制民主主義は、その一段奥を見る。
「その言葉を生み出した国家OSは、どのような設計になっているのか」
これを問う。
政治家の発言は、国家OSの出力の一つである。
ならば、その出力だけを批判するのではなく、
入力は何だったのか。
誰が設計したのか。
どの情報を採用したのか。
何を目的関数にしたのか。
どの制約条件を置いたのか。
誰が最終判断したのか。

ここまで遡って観測する。
それが、観測制民主主義である。

最後に問うべきこと

「最後まで戦う」という言葉を聞いたとき、私はこう問い直したい。
「最後まで戦わせる国家」ではなく、
「最後まで国民を守れる国家」を、
私たちは設計できているのか。

国家とは、国民を戦わせるための装置ではない。
国家は、人間が人間として生きるために、人間が作った制度である。
だからこそ、防衛を考えるときにも、
「誰を倒すのか」
だけではなく、
「誰を、何のために、どこまで守るのか」
を最初に置かなければならない。
そして、その目的から逆算して、国家の意思決定工程を一つひとつ観測し、監査する。
戦争を語るときこそ、精神論ではなく国家OSを見る。
それが、観測制民主主義の次なる観測点である。


つづく。

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