こんにちは、\イッカク です。/
今回は、アトラス・エッセイの3回目。
葛藤は壊れている証拠ではない
― それでも苦しい理由 ―
ズレは、間違いではなかった。
そう思えたとき、
少しだけ楽になる。
けれど、それでも。
なぜ、こんなにも苦しいのだろう。
休みたいと思っているのに、動いてしまう。
やらなければならないと分かっているのに、手が止まる。
どちらも否定しなくていいと分かっていても、
その間にいる自分は、引き裂かれるように揺れている。
ここで、また一つの前提が現れる。
複数のものを同時に抱えることは、
それ自体が負荷になる。
どちらか一方に決めてしまえば、楽になる。
迷いは消える。
方向も定まる。
けれど、それをしないということは、
その負荷を、そのまま引き受けるということでもある。
ズレを認めるというのは、
ただ優しくなることではない。
同時に存在しているものを、
そのまま持ち続けることだ。
それは、静かだが、確かに重い。
逃げることもできる。
どちらかを切り捨てることもできる。
けれど、どこかで分かっている。
それでは、何かが欠けるということを。
だから、人は迷う。
揺れる。
立ち止まる。
それは、壊れているからではない。
複数のものが同時に動いている現実を、
そのまま生きているからだ。
そして、その状態に、
簡単な解決はない。
ただ、抱えたまま進むしかない。
少しずつ、
その重さに慣れながら。
少しずつ、
どのように並べるのかを探りながら。
葛藤は、消えるものではない。
それは、間違っているからではなく、
そもそも消えるようにできていない。
だからこそ。
その中で、どう進むのかが問われている。
(第3回 了/続く)
