こんにちは、\イッカク です。/
今回は、アトラス・エッセイの9回目(最終)。
第9回(最終回):運用者とは何か
― 主体はどこにいるのか ―
人は、選んでいる。
そう思っていた。
けれど、見てきた通り、
そこには複数の流れがあった。
反射。
習慣。
関係。
選択。
そして、その奥にある、静かな方向。
それらが同時に動き、
ぶつかり合いながら、
一つの現実が立ち上がっていた。
その中で、
人は何かを優先していた。
気づかないままに。
あるいは、ときどき気づきながら。
そして、
それを「自分が選んでいる」と感じていた。
ここで、ひとつの違和感が残る。
本当に、そうなのだろうか。
選ぶ前に、すでに動いているものがある。
気づく前に、
すでに優先されているものがある。
それでもなお、
どこかで「自分が決めている」と感じている。
では。
その「自分」とは、何なのだろう。
流れのどれかだろうか。
反射だろうか。
習慣だろうか。
環境だろうか。
それとも、意識的な選択だろうか。
どれか一つを「自分」と呼ぶには、
どれも決定的ではない。
すべてが関わっている。
けれど、そのどれか一つでもない。
それでも、
確かに「自分」はいるように感じられる。
その感覚は、どこから来ているのだろう。
もしかすると。
「自分」は、最初からあるものではないのかもしれない。
何かを選び、
何かを優先し、
それらを並べていく、その過程の中で、
あとから、立ち上がってくるものなのかもしれない。
主体があって、運用するのではない。
運用の中で、主体が現れる。
そう考えると。
これまで見てきたズレも、葛藤も、
すべてが少し違って見えてくる。
それは、何かが壊れているからではない。
むしろ、
複数のものが同時に動いている中で、
現実が形づくられている、その過程そのものだった。
そして、その中で。
人は、
少しずつ気づき、
少しずつ選び、
少しずつ並べていく。
完全に一致することはない。
それでも、
その運用の中で、
「自分」は何度でも立ち上がる。
だから。
整える必要はない。
消す必要もない。
ただ、扱っていく。
ズレの中で。
葛藤の中で。
それでもなお、
成っていくものとして。
(最終回 了)
