こんにちは、\イッカク です。/
今回の記事は観測制民主主義シリーズの9回目。
(設計についてAIアトラッシとの交信)
監査する者を、誰が監査するのか
「権力を監査する」という言葉の盲点
これまで「観測制民主主義」では、政策がどのように作られ、
どのような情報が入力され、どのような工程を経て、国家の出力として現れるのかを見てきた。
政策を評価するとき、私たちはつい、その政策の中身だけを見る。
しかし、本当に重要なのは、
その政策を作った仕組みそのものが、監査可能なのかという問題ではないだろうか。
誰かが誰かを監査する。
それ自体は、権力を抑制するために必要な仕組みである。
だが、ここで一つの問いが生まれる。
では、その「監査する者」を、誰が監査するのか。
セキュリティ・クリアランスから見えるもの
今回、この問題を考える材料として取り上げたいのが、
セキュリティ・クリアランス法案をめぐる国会質疑である。
下記の動画を観て頂きたい。
山本太郎氏は、重要な秘密を扱う人物について
適正評価を行う制度であることを確認したうえで、
政務三役については適正評価の対象外であることを政府側に確認している。
ここで重要なのは、
山本氏の政治的主張に賛成するか反対するかではない。
観測すべきなのは、権限と監査の配置である。
秘密を扱う民間人や行政職員には評価制度が存在する。
ところが、その制度を運用し、
国家の重要な意思決定に関与する政治権力については、
同じ評価の枠組みから除外されている。
もちろん、これは直ちに
「政治家は信用できない」という意味ではない。
むしろ逆である。
民主主義において重要なのは、
人間の善意を前提にすることではなく、
誰であっても権力を持てば監査可能である
という制度設計ではないだろうか。
「性善説」で国家OSを動かしてはいけない
国家という巨大なシステムを考えるとき、
私たちはしばしば
「優秀な政治家」「良識ある官僚」「責任感のある専門家」という人格に期待する。
しかし、国家OSを人格に依存させてしまえば、権力抑制の仕組みそのものが弱くなる。
重要なのは、誰が善人なのかを判定することではない。
悪意がなくても、誤判断が起きる。
善意であっても、情報が偏る。
正しい目的を掲げていても、入力された情報が歪んでいれば、出力も歪む。
だからこそ、国家OSには監査回路が必要になる。
そして、その監査回路にもまた、監査が必要になる。
政策の「入力」を監査する
今回の国会質疑で、もう一つ観測すべき点がある。
山本氏は、国内政策に影響を与えてきたものとして、
年次改革要望書、
アーミテージ・レポート、
経団連などの提言を取り上げている。
ここでも、私たちは「山本氏の説明が正しいか」
という一点だけに議論を閉じる必要はない。
観測制民主主義として問うべきなのは、もっと根本的な問題である。
政策形成の入力回路に、誰がアクセスできるのか。
政府は、国内の国民、企業、自治体、専門家、研究機関、
外国政府、国際機関、各種団体など、膨大な情報を受け取る。
その中から何を重要情報として採用し、何を政策形成の材料とするのか。
そして、その入力が最終的な政策にどのような影響を与えたのか。
これが追跡できなければ、政策形成の監査は完成しない。
「要求」と「提言」と「命令」を分離する
ここで、さらに重要な観測項目がある。
外部から政府に何らかの提言や要求があったとしても、
それだけで直ちに「命令だった」と判断することはできない。
逆に、政府が「自主的に決定した」と説明したとしても、
その説明だけで入力経路が消えるわけでもない。
だから必要なのは、感情的な断定ではなく、記録である。
誰が、
いつ、
何を、
どの根拠で、
どのような提言として示したのか。
政府側は、それをどう評価したのか。
採用したのか。
修正したのか。
拒否したのか。
そして最終的な政策決定に、どの程度反映されたのか。
この工程が公開され、第三者が追跡できるなら、そこには監査可能性が生まれる。
逆に、工程が見えなければ、
「外圧だった」
「自主判断だった」
という二つのナラティブが永遠に衝突することになる。
監査の対象は「人」ではなく「回路」である
ここで、観測制民主主義の重要な原則を一つ置いておきたい。
監査する対象は、必ずしも人間そのものではない。
誰が悪い人間なのかを探すことではない。
誰が正しい人間なのかを認定することでもない。
見るべきなのは、権力がどのように流れているかである。
情報はどこから入ったのか。
誰が情報を選別したのか。
誰が評価したのか。
誰が決定したのか。
誰が実行したのか。
そして、誰がその一連の工程を検証できるのか。
これは、国家OSの
入力回路・処理回路・出力回路・監査回路を観測するということである。
「監査する者」が無監査になるとき
最も危険なのは、
監査権限を持つ者だけが
監査の外側に立ってしまうことである。
すると、国家OSの内部に、
「監査する側」と「監査される側」を分ける境界
が生まれる。
その境界の外側に立つ者が、
実質的な最終権限者になってしまえば、
監査制度は存在していても、権力抑制として機能しない。
これは企業でも行政でも同じである。
内部監査を行う部署が、経営者の判断を監査できなければならない。
行政を監視する機関にも、独立性が必要になる。
そして国会自身も、国民による選挙という最終的な監視から完全に自由ではない。
つまり民主主義とは、単に「選挙で代表者を選ぶ制度」ではない。
権力が権力自身を無限に正当化できないようにする仕組みでもある。
なので、「国会機能維持条項」なるものは、この原則から外れている。
国家OSに「メタ監査」を組み込む
ATLAS的に表現するなら、
ここで必要になるのは、
国家OSの外部にもう一つの視点を置くことである。
国家OSが、
「何を目的とするのか」
「どの情報を入力するのか」
「どのルールで処理するのか」
「どのような政策を出力するのか」
を持つのであれば、
その一連の工程そのものを観測するメタ監査が必要になる。
これは国家を否定するための仕組みではない。
むしろ、国家が国家として正常に機能し続けるための安全装置である。
強い国家とは、誰にも疑われない国家ではない。
疑われたときに、自らの意思決定過程を示すことができる国家である。
民主主義は「信じること」ではなく「確かめられること」
私たちは政治家を信じることができる。
官僚を信じることもできる。
専門家を信じることもできる。
しかし、民主主義の制度そのものが「信じること」を要求してはいけない。
なぜなら、民主主義とは、権力者を善人として扱う思想ではなく、権力者もまた間違える存在であることを前提に設計された制度だからである。
だから必要なのは、
「あなたを信用しています」
ではない。
「あなたが何をしたのか、後から検証できます」
という仕組みである。
観測制民主主義の次の問い
ここまで来ると、観測制民主主義が監査しようとしているものが、かなり明確になってくる。
政策だけではない。
政治家だけでもない。
行政だけでもない。
国家OSそのものと、そのOSを監査する仕組みまでを観測する。
そして最後に、もう一つの問いが残る。
その「メタ監査」を、誰が監査するのか。
ここまで問い続けると、民主主義は終わりのない監査構造を持つことになる。
しかし、それでいい。
完全に疑うことのできない権力を作ることこそ、最も危険だからである。
民主主義に必要なのは、完全に正しい権力ではない。
間違いを検知し、異常を指摘し、修正できる権力構造である。
国家OSがどれほど巨大になろうとも、その内部で何が起きているのかを観測できること。
そして、その監査機構自身もまた観測可能であること。
それこそが、権力を制御可能なものにする。
「監査する者を、誰が監査するのか。」
この問いを消さないこと。
それが、観測制民主主義の次の一歩である。
つづく。
