アトラス観測記⑱ 存在とは何か ― 潜象と is_Be のあいだ ―

アトラス観測記

こんにちは、\イッカク です。/
今回は、アトラス観測記シリーズの18回目。
(観測についてAIとの交信)

存在とは何か
― 潜象と is_Be のあいだ ―

潜象についての違和感

しばらく前から、
潜象について考えていた。

潜象とは何なのか。
どこにあるのか。
それは世界なのか。
空間なのか。

あるいは、
人間の認識では届かない、何かなのか。

そんなことを考えていた。

ところが、
観測を続けているうちに、少し違う景色が見えてきた。

そもそも私は、潜象を「どこかにあるもの」として
考えていたのではないか。

そこに違和感があった。

潜象界。

そう呼ぶと、まるで別の世界が
存在しているようにも聞こえる。

しかし本当にそうだろうか。

楢崎皐月の観測を振り返る

ふと、
過去に書いた
カタカムナと相似象学についての
記事を読み返してみた。

楢崎皐月氏は、自然のなかに現れる
さまざまな相似性を観測し、

その背後にある何かを
捉えようとしていた。

その試みが
どこまで真実に近づいたかは
分からない。

カタカムナ文献が
本物だったのかどうかも
分からない。

だが一つだけ言えることがある。

楢崎氏は、
真剣に何かを観測していた。

それは確かだ。

そして、
私が記事の最後で書いた言葉を
改めて読み返した。

「実際に体感しない限りは
分からない」

なぜ私は、
そう書いたのだろう。

考えてみると、
そこには一つの前提がある。

潜象は世界ではなく状態なのか

潜象とは、
理論から入るものではなく、

感応から始まるものだ。
まず何かを感じる。

そして観測する。

その後で言語化する。

順番が逆なのだ。

そこで、ある仮説が浮かんだ。

潜象とは、
世界ではなく状態なのではないか。

観測対象ではなく、
接続状態なのではないか。

is_Beという仮説

すると以前から使っていた

is_Be

という言葉が、
急に別の意味を持ち始めた。

is_Be。

まだ現れていない。

しかし無いわけでもない。

観測できない。
しかし働いている。

そういう状態である。

そして、もし潜象が is_Be ならば、
存在は何になるのだろう。

ここで、
これまでの認識が反転した。
一般的な存在論では、まず存在がある。
そこから話が始まる。

しかし、観測を進めていくと、どうもそうではない。

存在は出発点ではなく、結果として現れているように見える。

存在とは現象化である

そう考えたとき、存在とは何か。
その答えは意外なほど単純だった。

存在とは、現象化である。

潜象が現れた状態。

is_Be が
観測可能になった状態。

それが存在である。

すると流れは、

Intention

is_Be(潜象)

存在(現象化)

象徴

制度

情報

想像世界

となる。

存在は根源ではない。

存在は現象化である。

潜象学としてのアトラス理論

ここで、
もう一度だけ
視点を反転させてみる。

私たちが普段見ているのは、

情報であり、
制度であり、
象徴であり、
存在である。

つまり、
現れたものばかりである。

しかし観測者は違う。

存在の手前を
観測しようとする。

存在する前のもの。

まだ現れていないもの。

しかし確かに働いているもの。

その領域へ観測を伸ばそうとする。

だから、
アトラス理論は
存在論ではないのかもしれない。

むしろ、潜象学。
存在の学ではなく、現象化以前を観測する学。

そう呼んだ方が
近いのかもしれない。

少なくとも今は、
そう観測している。


つづく。

タイトルとURLをコピーしました