【徒然日記】
4_日本人のルーツと日本人の世界的境遇

日記


こんにちは、\イッカクです。/

今回は、「日の本人のルーツと日本人の世界的境遇」
の四回目です。

前回は、白村江の戦いで負けた日本に
唐の占領軍司令部が、
九州の大宰府に置かれて
”黒い勢力”による、
全面的な漢字使用の強制を
天智天皇に命じて、漢字使用令を出させて

わざわざ日本の
古代文字を亡きモノにする
工作が行われたと思われます。
後の時代に文字が発見されても
何がなんだか訳わからないように
文字自体を
めちゃくちゃに入れ替えて
記録されたものもあるとか・・・

とにかく、白村江で負けた後での唐の日本へ対する
文字文化の刷新・隠蔽・抹殺は、よほど
「日本の太古から伝わる文化に恐れを抱いていた」
のかとも思われます。

さて、今回も続きますが、、
ますます筆者(高橋良典氏)が、探っていけば
辻褄の合わない事柄が、浮上してきます。
今回は、「ひえだのあれ」さんが出てきます。


<引用開始>_______

”日本解体”を目にした天武天皇の憤慨

 これまで日本人は、
中国の漢字文化を受け入れることによって、
原始の日本が開明化したかのように
教え込まれてきた。が、
慨してこう述べている
(『日本書紀』天武六<六六七>年の条)。

「汝らのやからは、
もとより七つのあしきことを犯せり、
・・・・・・常に汝らは謀りごとをもって事をなす」

 つまり、中国人がいつも陰謀を企て、
国家の解体をはかってきたことを
天武天皇は糾弾しているのである。
こうしたことはおよそ、戦争に敗れた国が
占領軍に対して種々感ずることであろう。
・・・
まさか私たちの国にもこのような屈辱的な
歴史があったことは、
読者は夢にも思わなかったであろう。
そう、日本は白村江の戦いに敗れて
中国に占領され、
漢字使用を押しつけられるなかで
神代文字を喪失したのだ。

稗田阿礼は神代文字の”通訳”だった

 天武天皇は、二度目の被占領時の首相・
吉田茂にたとえられるかもしれない。
完全な再独立こそできなかったにしても、
主権の回復はなしえたことと思われる。
その一端が『古事記』の成立である。
また、天武の即位後しばらくして
「筑紫都督府」の呼称も消えている。
 ちなみに、さきにもふれた壬申の乱だが、
通常、天智と天武は兄弟であり、この内乱は
皇位継承をめぐって天智の子・大友皇子との間で
戦われたとされている。
 しかし、そうした考えからは
天智と天武の政策の違いが
まったく説明できない。
そこに”歴史の闇の封印”が
介在していることは明らかだろう。
 前述した系統の違いはその意味でも注目される。
そして、これを詳述するには紙面に限りがあるため、
ここでは皇室の菩提寺(京都の泉涌寺)に
天武天皇の墓がないことだけをいっておこう。
 さて、稗田阿礼【ひえだのあれ】が、”誦み”、
それを太安万侶が
漢字で書きとめてつくられた
といわれる『古事記』だが、
私はなんらかの圧力
(たとえばそれ以前にあった
日本の古代文字の記録を漢字に
改めるようかかった圧力)と、
日本の解体を憂慮した天武天皇の
意志とが相乗されて
撰録されたと考えている。
 その証拠に、『古事記』には、
稗田阿礼が
神代文字で書かれた記録を”読んだ”ものを、
安万侶が漢字に改めていった
という意味合いのことが
はっきり書かれている。
たとえば、
安万侶自身が『古事記』序文でこう述べている。

  そこで天皇(天武天皇のこと)は阿礼に命じて、
 帝皇の日継及び先代旧辞を誦み習わせ
 たり……。
   ここに天皇(持統天皇のこと)は、帝紀及び
  旧辞の違いを正そうとして、
  臣、安万侶に命じて、
  阿礼が誦むところの先帝(天武天皇)の
  御命令になられた旧辞の類を撰録して
  差し出すようにと
  仰せられた……。

 つまり、安万侶は
「阿礼が誦む(=読む)ところの帝紀・旧辞」
を手がかりとして、『古事記』を
編纂したのである。
もし帝紀や旧辞が漢字で書かれたものであるなら、
漢文の達人だった安万侶が
それを自分で読めばすむことで、
わざわざ阿礼の口を借りる必要はないはずだ。

 これはどういうことを
意味するのか。
そうだ、『古事記』の元になった
『帝紀』や『旧辞』
【聖徳太子(574~623)が
編纂したとされる
『天皇記』や『国記』等に
関連する名のみ残る史書。
「旧辞」は「先代旧事本紀」
ともされる。】
は、阿礼には読めても
安万侶には読めない文字、
つまり日本の古代文字で
書かれていたのだ。

そして、阿礼は神代文字で書かれた記録と
漢文の橋渡し役、いわば通訳として
安万侶のために働いた、
ということではないか。
 記憶力バツグンといわれた阿礼は、
「読み習ったもの」を記憶した。
しかしそれは、神代文字で書かれていたものを
読んで、それを記憶に
とどめたということなのだ。
 正史編纂という国家の重大事業にあたって、
おそらく阿礼は、神代文字で書かれた『帝紀』
や『旧辞』を暗誦するくらい
念入りに読み、それをていねいに
安万侶に読んで聞かせたものと
思われる。
<引用終り>_______

■編集後記
今回の記事内容で、もうおわかりだと思いますが、
1.古事記編纂時は、すでに古来から
伝わりし神代文字は、殆どの者が読めなかった。
2.唯一、神代文字を読めたのは、
稗田阿礼(ひえだ の あれ)、唯一人。
3.古事記の元ネタが聖徳太子
(574~623)が編纂した
『帝紀』や『旧辞』だったが
 これは、神代文字で書かれていたと
思われるが、阿礼以外は読めなかった。
4.阿礼は、この時代の人間が
知る以上の先端知識を知ることで、
政権にとって邪魔な存在になったのかも。

ということで、
稗田 阿礼 (ひえだ の あれ)の
運命や如何に?

では、次回をまた。

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