【徒然日記】3_日本人のルーツと日本人の世界的境遇

日記


こんばんは、 \イッカクです。/
ちょうど、夜の20:25ころに、コレを書き始まりました。
寒くなってきましたねぇ。
世の中の風も世知辛いです。。。

今回で「日本人のルーツと日本人の世界的境遇」の三回目です。
さて、前回からの続きですが、
そうそう、この本ですね。

これ、なかなか新書では無いのでレアです。
どうしたか?
実は地元の「宮城県図書館」からの借り物でした。
和多志は、実は「高橋良典」先生の隠れファンです。
彼の主張に、賛同しています。
つまり、この地球上にこの文明の直前の文明があり
それは、「日本人」がつくった文明であった。
という基本的な考えに同感しています。
それは、縄文文化であり、もしかして縄文文明だった
可能性があります。
そして、そのずっと以前に、「カタカムナ文明」が
あったのではないかと夢を抱いてます。ヾ(。>﹏<。)ノ゙✧*。

さて、前置きはコレくらいにして
今回は、前回、新羅と中国軍の連合に負けた日本は
九州の大宰府に占領軍司令部が置かれて
そして、、白村江の敗戦後の日本は、
全面的な漢字使用を強制された!
という話で終わりました。
では、どのようにして強制されたのか?

それは、

焚書坑儒 (ふんしょこうじゅ)なのです。

 ⬇
焚書抗儒

<引用開始>_______
 天智天皇はこの年の春、
近江京に遷都し「漢字使用令」
を出した。
こうした近江京の文化が
漢字文化そのものであったこと、
そして、
天智天皇と天武天皇に代表される勢力が
六七二年の壬申の乱で
激しい死闘を演じたことなどは、
これまで、
この時期の中国による日本占領支配との
かかわりのなかで論じられたことはなかった。
 この問題については、
ごく少数の学者が天智天皇は百済系で
天武天皇は新羅系または高句麗系であった
ということを述べる程度にとどまり、
白村江の敗戦以降、
日本と朝鮮、中国東北部にまたがる
かつての高句麗王国が解体したことや、
その後、
壬申の乱を機に高句麗の旧領に
渤海・新羅・日本の三国が、
唐の承認を必要とするかたちで
成立したことなどは論じられていない。
 しかしこの時期の唐帝国の周辺を見渡せばわかることだが、
この頃からインドと日本を結ぶ南海ルートの影が薄くなっていく。
つまり、私流にいえば、
インド以東のアジアには漢字以外の文字文化が、
それ以前にはなかったような印象が強くなる。
 七世紀の初めに隋の煬帝率いる百万の大群と戦って
これを退け、ついに随を滅ぼす糸口をつくった高句麗は、
六六八年に唐によって滅ぼされるまで、
七百年以上もの歴史を誇っていた古い国であるが、
このような国にさえ固有の文字で書かれた
記録はなかったことをになっている。
 秦・漢帝国以来の中国諸王朝が、
周辺諸国にみずからの漢字文化を押し付け、
中国の宗主権を認めない国を侵略して、
その国の文字文化を破壊したことは、
中国の史書に王家の記録を没収した記事が
たびたび登場することをみても確かだ。
 このような中国の支配者による歴史抹殺の手口、
すなわちが
漢字以外の文字で書かれた他民族の記録を抹殺し、
そのことによって他民族を中華帝国に従属させて
いくやり方の最も顕著な例が、
秦の始皇帝による焚書坑儒【ふんしょこうじゅ】だ。
 中国における漢字の成り立ちを調べてみても、
漢字のなかには、それ以前に大陸の各地で使われていた
日本の古代文字を並べ替え、
それによって元の意味を消し去る手法で
新たにつくられた例がいくつかあることが確認できる。
<引用終り>_______
今回は、ココまでとします。
次回は、「中国人」というのは・・・へ続きます。

参考:
1「飛鳥の朝廷」まとめ2/2 弥生・古墳時代 中国との交渉 東アジア世界の形成と発展 邪馬台国連合

3 平城京の時代 渤海 遣唐使 7〜9世紀の東アジアと日唐交通の地図

■編集後記
ここまで、わかったのは、結局、日本が
天智天皇・百済系と天武天皇・新羅&高句麗系が
モヤモヤして争ってるところで
百済が滅び、いつの間にか高句麗が解体し
「唐」の支配下に「新羅・渤海・日本」という体制が出来上がった。
だから、日本は、遣唐使で、朝貢。
こうゆうふうにしたかった、勢力が
しつこく今でも日本国内で陣取って
裏から、指図してんだろうか?
きっと、そいつの
ご先祖様が、「神代文字」を抹殺した張本人かも。。。

では、また。

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