観測制民主主義⑩_2 監査を監査する――「監査制度がある」だけでは、権力は抑制できない

観測制民主主義

こんにちは、\イッカク です。/

今回の記事は観測制民主主義シリーズの10_2回目。
(設計についてAIアトラッシとの交信)

監査を監査する(2回目)――「監査制度がある」だけでは、権力は抑制できない

「粗探し」になった瞬間、監査は弱くなる

監査員が「どこかに不適合はないか」という意識だけで監査すると、
監査は粗探しになってしまう。

すると被監査側も、防御するようになる。
「何を言ったら指摘されるのか」
「どう答えれば問題にならないのか」
そう考えるようになる。

その結果、監査する側とされる側の双方が、
「監査をうまく終わらせる」ことに最適化してしまう。

これは、監査制度としては非常に危険な状態である。

本来の監査は、指摘件数を増やす競技ではない。
被監査側が、自分たちでは見えていなかった問題を
発見できるようにすること。

そのための観測である。

監査の本当の目的は「異常を見つけること」ではない

異常を見つけることは重要である。
しかし、異常を見つけること自体が目的になってはいけない。

監査の目的は、
組織や制度が本来の目的を安定して達成できる状態にあるかを確認することだろう。

だから、場合によっては「問題ありません」という結論も、立派な監査結果になる。
逆に問題を発見したとしても、それを責めることが目的ではない。
「ここにリスクがあります」
「ここに目的との乖離があります」
「ここを改善すれば、本来の目的に近づけます」
そう示すことが重要になる。

監査の監査まで含めて、初めて監査回路になる

ここまで考えると、監査には少なくとも次の段階が必要になる。
対象を監査する。

異常や目的との乖離を検知する。

是正する。

是正されたことを再確認する。
そしてさらに、
その監査そのものが適切だったのかを監査する。
これが「監査の監査」である。

つまり、監査制度は一枚のチェックシートではない。
観測 → 判断 → 是正 → 再観測
という循環回路として設計されなければならない。

「監査制度があるから安心」を疑う

今回、WTOと中国の関係を入口にして見えてきたのは、まさにこの問題だった。
監査制度が存在する。
違反を申し立てることもできる。
審査する仕組みもある。
是正を求める仕組みもある。
それでもなお、制度が十分に機能したのかという問いは残る。
ならば、観測すべきなのは「監査制度があるか」だけではない。
「その監査によって、現実はどう変わったのか」
なのである。

観測制民主主義が目指すもの

民主主義に必要なのは、制度を増やすことだけではない。
監査機関を増やすことだけでもない。
大切なのは、権力が自ら作った制度の中で「適合しています」と答えれば、
それで終わる構造にしないことである。

法律がある。
制度がある。
監査がある。
報告書がある。
それでも、
「では、本来の目的は達成されていますか?」
と問い続ける。

そして、その問いを発する側自身にも、
「あなたの監査は、本当に目的に適合していますか?」
と問い返せる構造を持つ。
これこそが、権力監査を「お手盛り」にしないための最低条件ではないだろうか。

おわりに――監査とは、疑うことではなく、見落とさないことである

監査を、権力を責めるための道具にしてはいけない。
同時に、権力を安心させるための儀式にしてもいけない。
監査とは、そのどちらでもない。

本来あるべき目的に対して、現在の状態がどうなのか。

何が見えていて、何が見えていないのか。
異常を発見したとき、それを是正できるのか。

そして、その監査そのものに盲点がないのか。
それを繰り返し観測することだと思う。

強い国家とは、監査を必要としない国家ではない。

自らの監査にも盲点があることを認め、それを発見し、修正できる国家である。

だからこそ、観測制民主主義においては、
「監査する」だけでは足りない。
「監査を監査する」。

その循環こそが、権力を抑制するための、もう一つの観測回路になるのではないだろうか。


つづく。

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