第10章 記憶の渦:短編小説「わたしは水滴、そしてすべては海へ」

サトコの目覚め

第10章 記憶の渦

ある晩、サトコは不思議な夢を見た。

夢のなかで彼女は、知らないはずの土地を歩いていた。

風は乾いていて、地面には砂埃が舞っていた。

けれど、その風景にはどこか懐かしさがあった。

見覚えのない町並み。

けれど、胸の奥が疼くような既視感。

彼女は、その道を歩きながら、誰かを探しているような氣がしていた。

そのとき、小さな少女の笑い声が聴こえた。

振り返ると、古びた井戸のそばで、薄い青の着物を着た少女がこちらを見ていた。

その目には、涙のあとと、微笑みが同時に宿っていた。

サトコは、思わず彼女に近づいた。

「あなた……誰?」

少女は、何も答えなかった。

ただ静かに、サトコの手を取った。

その瞬間、眩しい光とともに、無数の映像がサトコの意識に流れ込んできた。

かつての風景、名前も知らぬ人々の笑顔、別れの涙、祈る手。

それらは、まるで幾重にも重なった「記憶の渦」だった。

自分のものとも、他人のものともつかぬ感情が、次々と胸を貫いた。

そこには、戦争の光景もあった。

飢えに苦しむ人々。

武器を持たされた子どもたち。

それを見つめる誰かの目。

その「誰か」が、自分であったような、そうでなかったような感覚。

夢のなかでサトコは、時間の直線が崩れていくのを感じていた。

過去、現在、未来という境が、曖昧になってゆく。

それは「時間の統合」だった。

夢が終わる直前、少女は、サトコに微かに語りかけた。

「あなたは、わたし。わたしは、あなた……忘れないで」

目覚めたとき、サトコの目には涙がにじんでいた。

だが、悲しみの涙ではなかった。

それは、遥か遠いところで分断された何かが、また一つに戻ったような感覚だった。

彼女は、記憶とは過去にあるものではなく、「今」のなかに流れ込んでくるものだと理解しはじめていた。

その夜から、サトコはときおり「他人の記憶」が自分の内側を通り抜けるような体験をするようになった。

それは重荷ではなく、「共鳴」だった。

人々が無意識に封じてきた悲しみ、痛み、願い……それらがサトコを通して、形を持ち始めていた。

彼女は、すべてを自分の「正体」だとは思わなかった。

けれど、すべてが「自分の一部」であることを認め始めていた。

わたしは、わたしだけではない。

誰かのなかにわたしがいて、わたしのなかに誰かがいる。

そんな理解が、静かに彼女の胸に根を下ろし始めていた。


つづく。
第11章

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