第10回:文明は、再び“共有”へ向かうのか ― 接続の再設計 ―

「見えないまま進む社会」シリーズ

こんにちは、\イッカク です。/
今回は「見えないまま進む社会」シリーズの10回目。

文明は、再び“共有”へ向かうのか
― 接続の再設計 ―

最近、人々はよく、

「会話が通じない」

と言う。

同じニュースを見ているはずなのに、

同じ社会に住んでいるはずなのに、

まるで別の世界を生きているかのように、話が噛み合わない。


前回、私は、

対話が“理解”ではなく、“勝敗”へ変わったとき、

分断は固定化し始める――

という話を書いた。

では、その先に何が起きるのか。

人間は、このまま完全に分断されたまま、生きていくのだろうか。

おそらく、そうはならない。


なぜなら人間は、本質的に、

「何かを共有しながら生きる存在」

だからである。


動物ですら、群れを形成する。

縄張りを持ち、

役割を分け、

互いの距離を調整しながら生きている。

人間もまた、その延長線上にいる。


どれほど個人主義が進もうと、

どれほど価値観が多様化しようと、

完全に孤立したまま生きることは出来ない。

人は結局、

  • 誰かと繋がり
  • 何かを共有し
  • どこかへ帰属しながら

生きていく。


問題は、

「何を共有するのか」

である。


かつて人間は、

  • 家族
  • 地域
  • 国家
  • 宗教
  • 職場

などを通して、

ある程度、共通の現実や価値観を共有していた。


そこでは、

「自分は何者か」

も、共同体との関係の中で定義されやすかった。

しかし現代では、その構造そのものが変化し始めている。


接続形式が、急激に変わっているのである。


今や人々は、

  • SNS
  • 動画配信
  • オンライン共同体
  • 分散型コミュニティ

などを通して、

地域や国家を超えて繋がる。


だがその一方で、

何を現実として参照するのか。

どこへ帰属しているのか。

何を価値あるものと感じるのか。

それらは、急速に流動化し始めた。


つまり現代は、

「繋がれなくなった時代」

ではない。

むしろ逆に、

“繋がり方そのものが変化している時代”

なのかもしれない。


しかし問題は、

文明側の設計が、その変化を後追いしていることだ。


現代文明は、

“繋がる技術”

を先に手に入れた。

だが、

「どう繋がるのか」

「何を共有するのか」

「何のために繋がるのか」

という設計思想は、追いついていない。


その結果、人々は、

接続されながら漂流する。


かつては、

  • 家族のため
  • 地域のため
  • 国のため

という形で、

社会構造そのものが、

ある程度の「生きる意味」を供給していた。


しかし現代では、

「何を生き甲斐として生きるのか」

その問い自体が、個人へ返され始めている。


だから人々は、

  • 思想
  • 世界観
  • 小共同体
  • 推し
  • 発信
  • 哲学

などの中に、

“存在の置き場”

を探し始める。


そして今、

哲学や思想までもが、再び注目され始めている。


だが本来、哲学とは、

「答えを固定するもの」

ではなく、

「問い続けるもの」

だった。


ところが現代では、

不安定化した現実の中で、

哲学さえも、

  • 所属確認
  • 世界観防衛
  • 現実固定

のために消費され始めることがある。


それは、人々が単に知識を求めているのではなく、

「安心できる現実」

を求めているからなのかもしれない。


しかし、人間は、

情報だけでは生きられない。


人は、

「どこへ帰属し、

何を価値あるものとして共有し、

何を生き甲斐として生きるのか」

を必要としている。


文明とは、単なる制度ではない。

人々が、

  • 価値を共有し
  • 称え合い
  • 切磋琢磨し
  • 何かを共に創ろうとするとき

そこに“熱”が生まれる。


以前、福島の酒蔵の話を見たことがある。

風評被害に苦しんだ蔵元たちは、
互いに協力し合い、
酵母開発を進め、
再び評価を取り戻していった。

しかしその後、2011 Tōhoku earthquake and tsunamiが起きる。


津波で流された酒蔵の跡地には、

流されずに残った酒瓶と共に、

「どうか、酒蔵を再開してください」

という紙が残されていたという。


人々が守ろうとしていたのは、単なる商品ではない。

その土地の時間であり、

記憶であり、

誇りであり、

共に生きてきた文化だった。


だからこそ、人は再び立ち上がろうとする。


文明とは、

壊れないものではない。


むしろ、

壊れてもなお、

「もう一度、繋ごう」

とする意志の中に、再び立ち上がるものなのかもしれない。


違う価値観を持ちながらも、

違う現実を見ながらも、

なお、人は何かを共有しようとする。


それは、

完全な一致を求めることではない。


むしろ、

“ズレを抱えたまま、それでも共に生きようとすること”

なのだろう。


文明とは、

同じ思想になることではない。


異なる存在同士が、

なお「価値」を持ち寄り、

称え合い、

切磋琢磨しながら、

“今”を共に生成していくこと――

その営みそのものなのかもしれない。



つづく。

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