第3回:説明責任はなぜ機能しなくなるのか

「見えないまま進む社会」シリーズ

こんにちは、\イッカク です。/
「見えないまま進む社会」シリーズの3回目。

説明責任はなぜ機能しなくなるのか

——形式化するアカウンタビリティ

私たちは日々、「説明はなされている」という状況に接している。

記者会見、公式発表、質疑応答。
形式としての説明の場は、確かに存在している。
しかしそれにもかかわらず、
どこか腑に落ちない感覚が残ることがある。

説明はなされているはずなのに、理解できたとは言い難い。
あるいは、理解できたとしても、
それが十分に検証されたとは感じられない。

この違和感は、どこから来るのだろうか。

前回は、「注意資源の分断」という観点から、
私たちが重要な情報にたどり着きにくくなっている構造を整理した。
その結果、情報は存在していても、
それを継続的に検討する条件が失われつつある可能性を指摘した。

この状況は、説明責任のあり方にも影響を及ぼす。

本来、説明責任とは、単に情報を提示することではない。
それは、意思決定の過程や根拠を明らかにし、
第三者がそれを検証できる状態を確保することである。

したがって、説明責任が果たされているかどうかは、
「説明があったか」ではなく、
「その説明が理解され、検証可能であったか」
によって判断されるべきである。

しかし、注意が分断された環境においては、
この前提が徐々に崩れていく。

まず、情報は断片的に受け取られる。
一つの発言や資料が、
前後の文脈から切り離されて認識されることで、
全体像を把握することが難しくなる。

次に、継続的なフォローが行われにくくなる。
新しい出来事が次々に現れる中で、
一つの説明について深く掘り下げる機会が失われる。

その結果、説明は形式としては存在しながらも、
実質的には検証されないまま流れていく。

ここで起きているのは、「説明責任の不在」ではない。
むしろ、「説明責任の形式化」である。

つまり、説明という行為は維持されているが、
それが本来果たすべき機能——
理解と検証を可能にするという機能
——が弱まっている状態である。

このとき、制度はどのように見えるだろうか。

表面的には、すべてが適切に行われているように見える。
説明の場は存在し、情報も公開されている。
手続きも形式的には守られている。

しかし、その内実においては、
説明は「消費される情報」の一部となり、
検証の対象として保持されにくくなる。

ここに、制度の重要な変化がある。

説明責任は、本来、権力に対する統制の手段である。
市民や議会が意思決定を監視し、
必要に応じて問い直すための基盤である。

しかし、その説明が実質的に検証されないのであれば、
統制の機能は徐々に弱まっていく。

この変化は急激に起きるものではない。
むしろ、気づかれにくい形で進行する。

説明は存在する。
しかし、それが十分に理解されているかどうかは確認されない。
理解されていなくても、次の話題へと移行していく。

こうして、
説明責任は「果たされているもの」として扱われながら、
その実質的な意味を徐々に失っていく。

ここで改めて問う必要がある。

私たちは、提示された説明を、
どこまで検証できているだろうか。
そして、その説明を検証するための時間と注意を、
確保できているだろうか。

もし、それが難しくなっているとすれば、
問題は説明の内容だけではなく、
説明が機能するための環境そのものにあると言える。

この点は、
第2回で扱った注意資源の問題と密接に関係している。
注意が分断される環境では、
説明は「提示される」だけで終わりやすく、
「検証される」段階へと進みにくい。

その結果、制度は形式的には維持されながら、
実質的な統制機能が弱まっていく。

では、この状態がさらに進行すると、何が起きるのだろうか。

説明が形式化し、検証が行われにくくなるとき、
次に問題となるのは、意思決定そのもののあり方である。

すなわち、審議の過程がどのように変化していくのか、という点である。

次回は、「審議はどこで空洞化するのか」という観点から、
プロセスが維持されながら実質が失われていく構造を整理する。

制度は、どのようにして
「動いているが機能していない」状態に入るのか。
その過程を検討する。


つづく。

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