こんにちは、\イッカク です。/
今回は「国民を置き去りにしてしまう日本の構造シリーズ」0回目。
なぜ、私たちは 「攻撃されている」と感じてしまうのか
最近、こんな感覚を覚えたことはないだろうか。
政治の重要な決定が、いつの間にか既成事実として進んでいる
経済的な負担は増え続けているのに、その理由や全体像が見えない
教育や社会制度が次々と変わっていくが、誰のための変更なのか分からない
事故や不都合が続いても、説明は形式的で、納得に至らない
こうした出来事が同時多発的に起きると、ふと頭をよぎる。
これは偶然なのだろうか。
それとも、日本人が何かのターゲットにされているのではないか。
この感覚を「被害妄想」「考えすぎ」と片づけることは簡単だ。
だが、同じ違和感を抱く人が、
同じ時代・同じ社会の中で増えているとしたら――
それは個人の心理ではなく、
社会の構造そのものに原因がある可能性を疑うべきではないだろうか。
陰謀論ではない、善悪の話でもない
最初に、はっきりさせておきたいことがある。
本シリーズは、
誰かの悪意を断定するものではない
陰謀論を展開するものでもない
善い政治家/悪い政治家を裁く話でもない
ここで扱うのは、もっと手前の問題だ。
なぜ、国民の生活実感や意思が、
政策や制度の設計に「参照されていないように見える構造」が、
あたかも正常なものとして定着してしまったのか。
その結果として、私たちは
「攻撃されているような感覚」を抱いてしまう。
本当に問うべきなのは、
その感覚の是非ではなく、
そう感じさせる構造が、どのように作られ、維持されてきたのかである。
国民を参照しない構造とは何か
ここで言う「国民を参照しない構造」とは、
国民の声を一切聞いていない、という単純な意味ではない。
世論調査は存在する
選挙も定期的に行われている
パブリックコメントの制度もある
それでもなお、
最終的な設計・決定の場面で、
国民の生存・尊厳・安心といった根源的な意図が、
上位の判断基準として明確に置かれていないように見える。
この「参照されなさ」は、意図的な排除というよりも、
制度設計の前提
意思決定プロセスの慣性
効率や速度を優先する設計思想
といったものが重なった結果、
誰も明確に否定していないのに、結果として国民が設計から外れていく
――そんな構造として現れている。
憲法は、なぜ「設計」に使われないのか
日本国憲法は、国民にとって最大の共通認識であり、
国家の目的と制約を定めた根本規範である。
しかし現実には、
憲法は抽象的すぎて現場では使えない
即効性や政策スピードに合わない
具体的な制度設計には法律や政省令で十分
そう扱われることが多い。
だが、もし憲法の抽象度を下げ、即効性や運用効率に合わせていくなら、
それはもはや憲法ではなく、
単なる「憲法の下にある法律」へと格下げされたものになってしまう。
結果として、
憲法は「守るべき理念」として掲げられながら、
実際の制度設計では参照されない存在になっていった。
今回は「答え」を出さない
この0回目では、結論も解決策も提示しない。
目的はただ一つ。
私たちが感じているこの違和感は、
気のせいでも、個人の感情でもなく、
構造として説明できるのではないか
という問いを、共有することだ。
次回以降、
いつから、この構造が固定化されたのか
どの制度・どの判断の積み重ねが分岐点だったのか
なぜ地方自治体や市民参加が機能しにくいのか
を、具体的な事例と制度の変遷を通じて見ていく。
そして最終的に、
国民の意図を、再び設計に接続するための実装の話へ進む。
この連載は、そのための準備運動である。
つづく。

