こんにちは、\イッカク です。/
今回は、れいわの山本太郎氏による「根源の流れ」について
本稿は、山本太郎氏の是非や評価を論じるものではない。
ここで扱うのは、彼が体現しようとした
「根源の流れ(Intention)」が、
なぜ国会という制度空間を通過しきれず、
結果として個人に過剰な負荷を集中させてしまったのか、
その構造的理由である。
結論を先に述べるならば、
この問題は個人の資質・覚悟・努力で解決できる性質のものではなかった。
構造解析の結果、
明らかになったのは、
個人が立ち向かう前提そのものが、すでに無理を内包していた
という事実である。
山本太郎氏の行動の根底には、
一貫した姿勢があった。
それは、生活の現場で生じている苦しみや不条理を、
直接、政治の中枢へ接続しようとする試みである。
彼は、抽象的な理念や制度論よりも、
まず現場の声を優先し、それを国会の場へ運び込もうとした。
この姿勢自体は、
構造的に見ても正しい方向を向いていた。
Intention(根源)を起点とし、
それをInformation(制度・言語)へと変換し、
Imagination(可視化された政治的表現)として提示する。
その流れ自体に歪みはなかった。
しかし、問題はその運搬方法にあった。
国会という場は、
本質的にInformationが過積載された空間である。
制度、慣例、政局、数の論理、メディア対応。
これらが層となって重なり、
Intentionが直接通過することを想定していない構造を持つ。
その中で、Intentionを通そうとすれば、摩擦は必然的に発生する。
本来であれば、
この摩擦を吸収し、
分散し、再構成する中間構造が必要だった。
しかし実際には、
その役割の多くを山本太郎氏個人の身体と精神が引き受けていた。
結果として、Intentionは通り続けたが、
個体への負荷は蓄積し、やがて限界に達した。
これは「頑張りすぎた」のではない。
構造が、そうさせたのである。
議員辞職という結果は、
一見すると後退や断念のように映るかもしれない。
しかし構造的に見れば、それは別の意味を持つ。
それは、個体直結モデルが限界に達したことを示す、
明確なシグナルである。
Intentionを個人が抱え、
個人が運び、
個人が耐える。
この設計は、持続可能ではない。
どれほど強い意志を持つ人物であっても、同じ結果に行き着く。
ここで問われるべきなのは、
「誰が次にやるのか」ではない。
どういう構造なら、誰であっても流せるのかである。
この問いに対して、
ひとつの示唆を与えるのが、
かつて日本で育まれた小集団活動の思想である。
QCやTQCと呼ばれたそれらは、
管理手法として語られがちだが、
その本質は別にある。
それは、
・現場起点であること
・小さな単位で共有すること
・個人に責任を集中させないこと
・改善を一度きりにしないこと
こうした構造によって、
意図や問題意識を分散・保持・再生産する仕組みだった。
政治に必要なのは、
数値管理としてのQCではない。
Intention(根源との結びつき)を
壊さずに循環させるための、
こうした社会的アーキテクチャである。
山本太郎氏が示したものは、
完成形ではない。
しかし、それは重要な試行だった。
彼は、Intentionを現場から切り離さず、
制度へ持ち込もうとした。
その試みが個人の限界に突き当たったという事実は、
失敗ではなく、
次に何を設計すべきかを示す材料である。
個人が立ち向かう政治から、構造が支える政治へ。
その転換が起きたとき、
初めて、山本太郎氏が通そうとした
「根源の流れ」は、個人を超えて、
社会の中を静かに、しかし確実に流れ始めるだろう。
では、また。

