こんにちは、\イッカクです/
今回は、「語られる国家の儀式」論考シリーズの2回目です
第2章:語彙の呪文
──外部設計と語りの整合性
語りには力があります。
けれどもその力は、語り手の記憶と感情が宿ってこそ意味を持つ。
語彙だけが整っていても、それはただの呪文です。
そして今、私たちが目にしている政治の語りは
──まさにその「呪文」によって構成されている。
小野田紀美氏の記者会見を思い出してください。
「自立性」
「優位性」
「不可欠性」
「秩序ある共生」
「フュージョン」
「エコシステム」
「タスクフォース」
── これらの語彙は、まるで呪文のように繰り返され、
政策の正当性を装います。
しかし、それらの言葉はどこから来たのでしょうか?
誰がその語彙を選び、誰がその順序を決めたのでしょうか?
実はこれらの語彙は、
米国の戦略文書やシンクタンクの提言と驚くほど一致しています。
とくにCSIS(戦略国際問題研究所)の報告書には、
「経済安全保障の三原則」として
Resilience(強靭性)、
Autonomy(自律性)、
Indispensability(不可欠性)が明記されています。🤣
日本の政策文書や会見で使われる語彙は、
これらの英語の翻訳語としてそのままパクって登場しているのです。
つまり、語りの整合性が高いということは、
語りの設計が外部から提供されている可能性が高い
ということ。
語り手は、自分の言葉で語っているようでいて、
実際には“設計された語彙”を再生しているだけなのです。
この構造は、
語りの自由を奪います。
語彙が整いすぎているとき、
そこには語り手の葛藤や揺らぎが存在しない。
国民は、ソレを感じたい、観たいのに
その語りは“儀式化”しており国民の人間を見てない証拠です。
そしてその儀式は、
国民の記憶や生活を語るためのものではなく、
外部の戦略を正当化するためのもの。
語彙とは、記憶の器です。
しかしその器が他者によって設計されているとき、
語りは記憶の再生ではなく、
外部から入手した記憶の供出になります。
語り手は、語る者ではなく、記憶を差し出す者になってしまっています。
この語りの構造は、
歴史的にも危険な兆候を孕んでいます。
というのは、、
ナチ党が政権を握ったとき、
彼らは「民族の純粋性」「生存圏」「国家の再生」といった
語彙を繰り返し用いました。
それらの語彙は、
感情を動員し、敵を設定し、国家の行動を正当化する呪文として機能しました。
語り手は、
自らの意志ではなく“国家の語り”を代弁する者として振る舞い、
語られなかった者たち
──ユダヤ人、障害者、ロマ、反体制派──らは、
「制度の語り」の外側に追いやられ、沈黙させられました。
語彙が呪文として響くとき、
語りは暴力の運び手となる可能性があります。
語り手がその設計意図を理解せず、
ただ儀式として語るならば、
悪意の拡散に加担してしまう。
それは、語りの倫理が失われた瞬間です。
(タカナチ・サナエノミクスになるかもしれません)
そして──語彙が羅列されるだけで意味を持たないとき、
語りは“語彙無”となる。
語彙無とは、
語りの空洞化であり、記憶の喪失であり、
倫理の放棄です。
その状態は、象徴的に「ゴイム=家畜」とも読み替えられる。
語りが届かないように設計された構造の中で、
聞き手は“語られない者”として扱われる。
語りは、語りではなく命令となり、
聞き手は制度の従属者となる。
という、過去の反省も無く、再度ナチズムが
今度は、日本で起動される可能性を秘めているようで、
危険な状態となっているとおもわれるのです。
ちなみに
山本太郎氏が動画で述べていました
・・・カレー味の💩+もんじゃ味の🤮
=悪魔合体の政権デス😱
その名も、タカナチ政権🤣
つづく。

