第四章:国際問題と視座の喪失
(例:パレスチナ問題)
■ 世界を読み解く鍵は、「誰の視座で見ているか」
国際情勢を語るとき、多くの人はニュースや報道から情報を得ている。
しかし、その報道は「中立」だろうか?
その問いに、真っすぐ「はい」と答えられる人は少ないだろう。
戦争、紛争、外交、援助、制裁
——それらをどう捉えるかは、視座=立ち位置に依存する。
日本に暮らす私たちは、
いつしかアメリカ的な「民主主義 vs テロリズム」
「自由主義 vs 独裁」といった
単純な二元論のフィルターで世界を見せられてきた。
だが本当に世界は、そんなに単純な構図だろうか。
そこに歴史的背景や宗教的文脈、民族のトラウマ、
地政学的利権の綾など、
多層的な真実が潜んでいることを、
私たちはどれほど知っているだろう。
■ パレスチナ問題に映る「見捨てられた人々」の声
イスラエルとパレスチナの対立は、
単なる国境紛争でも宗教戦争でもない。
それは、占領と抵抗、民族の生存と抑圧の物語である。
1948年のイスラエル建国に始まり、
数度の中東戦争を経て、
ガザやヨルダン川西岸地区には
パレスチナ人が分断され、包囲され、苦しんできた。
ガザでは電氣・水道・医療が制限され、
子どもたちが空爆に怯えながら暮らしている。
これまでその状況を、国際社会の多くは黙認してきた。
日本もまた、「どちらにも加担しない」という名目のもと、
事実上の傍観を続けている。
しかし、傍観は無関心ではない。
体制側への加担であるという視点を、
私たちは持つ必要がある。
報道はイスラエル側の被害や正当性を強調し、
パレスチナ側は「テロリスト」と一括りにされる。
だが、爆撃された病院や避難所、
死んでいく赤ん坊の姿に、
人間として心が動かないなら、何のための「文明」だろうか。
■ 国際問題を “自分のこと” として捉える力
日本は戦後、武力を捨て、経済大国として
国際社会に貢献してきた。
だがそれと引き換えに、
自らの視点で世界を見る力を手放してしまったのではないか。
常に「アメリカの顔色をうかがう外交」、
常に「多数派につくことで責任を回避する姿勢」、
常に「金を出せば済むと思っている支援」。
それは果たして、真に独立した国家の姿だろうか?
今、日本が問われているのは、「中立」ではなく「良心」である。
力による支配が繰り返される世界の中で、
調和と共生を掲げる精神性を持つ日本こそ、
真の意味での対話や調停の役割を果たせるのではないか。
■ 情報の偏りが「正義感」を奪う
現代の戦争は、兵器による戦闘であると同時に、情報戦争でもある。
SNS上では「この映像はフェイクだ」
「あれは数年前のものだ」といった情報が飛び交い、
真実が見えにくくなっている。
また、日本のメディアも、
外信の多くは英米発のフィルターを通して報じられる。
それゆえ、特定の国益に沿った
報道バイアスが無意識に私たちの思考を縛っているのだ。
正義とは何か。
誰が「悪」なのか。
その問いを考える余地すらない報道空間に、
私たちは慣らされてきた。
しかし、思考停止こそが支配の第一歩である。
■ 「真の平和」とは調和の中にある
宇宙の法則、自然の摂理
——そこに支配や排除という概念はない。
すべては陰と陽、光と影が調和して一つの存在となっている。
「どちらかを排除する」のではなく、
「どう共存させるか」が、より高次の文明の在り方である。
戦争が起こるたびに、
「悪者探し」に走るのではなく、
なぜ対立が起きるのか、
どうすれば共に生きられるのかという視座が必要だ。
それは同時に、
日本がいま、内側に抱えている分断と向き合うことでもある。
いま日本人に求められているのは、
他人事のように世界を見るのではなく、
共にこの星に生きる“同志”として、
痛みを分かち合い、智慧を育む意志である。
それこそが、
調和文明の担い手としての日本人の使命ではないだろうか。
つづく。