8章 意識という“共鳴場”
__ 論考:「制度設計された大衆未来と生存選択」からの脱出

「制度設計された大衆未来と生存選択」からの脱出

こんにちは、\イッカクです/

今回は、論考:「制度設計された大衆未来と生存選択」からの脱出の8回目です。
では、、

8章 意識という“共鳴場”──情報支配を超えて

■思考と情報が切り離せない時代に

 
私たちの「考える力」は、果たして“自分のもの”だろうか。

今や、あらゆる情報がネットを通じて、意図的に供給され、流され、拡散される時代である。

だが、その情報の背後にある「意図」を読み取る眼差しは、大多数の大衆には備わっていない。

テレビやネットニュースで流された言葉を「自分の考え」として抱え込み、AIが生成した画像や言葉に「真実らしさ」を感じ、またある時はSNSの共感圧力によって“正しい”と思い込んでしまう──。

こうして私たちは、無数の情報に包囲されながら、その情報の発信者が「誰か」「何者か」さえも、あいまいなまま、それを思考の材料とし続けている。

つまり、私たちの“思考”は、既に外部の供給システムと一体化してしまっている。

そして、それはつまり、「自分で考えること」の放棄でもある。

このような“情報支配”の構図の中で、私たちはいかにして「自分の思考」や「真の意識」にアクセスすればよいのだろうか。

 

■内なる“共鳴場”を取り戻すために

 
この章では、「意識」というものを「個体の脳内に閉じたもの」ではなく、「共鳴する場(フィールド)」として捉える視点を提案したい。

私たちはしばしば、「意識=思考の主体」だと捉えるが、それは本質的ではない。

意識とは、むしろ場のようなものであり、それは身体と環境の相互作用の中に“在る”。

シューマン共振のような地球の共鳴、あるいは複数人が同じ空間にいて同じ感情を共有するような「集合的共振」も含めて、意識とは「場としての情報構造」なのだ。

ここでいう“共鳴”とは、単なる気分や空気の話ではない。

それは、深層の感覚や、生体の波動的応答を通じて起こる。

共鳴場としての意識は、操作された言語情報やメディアのビジュアルとは別種の、「氣」に近い領域と接している。

私たちが、本来の“直感”や“違和感”と呼ぶものは、この共鳴場の働きによるものだ。

だが、意識が情報に乗っ取られると、この共鳴は狂ってしまう。

規格化された情報が氾濫し、AIやアルゴリズムが人々の判断や価値観を「見える化」し、誘導し、演出する時代──。

それは、まさに「共鳴場の塗り替え作業」と言ってよい。

 

■氣づきを内発する“違和感”こそ、突破口

 
希望があるとすれば、それは「違和感」である。

操作された情報の中でも、誰しもふとした瞬間に感じる「あれ?何かおかしい」という微細な感覚。

それは、場のノイズであり、共鳴がズレたというサインでもある。

この違和感を押し殺すか、あるいは立ち止まって丁寧に向き合うかで、その後の行動は大きく変わる。

氣づきとは、外部から教えられるものではない。

むしろ、内側からじんわりと“湧き起こるもの”なのだ。

この違和感が蓄積し、やがて「構造そのものがオカシイのでは?」という問いが芽生えるとき、初めて真の“自我”が立ち上がる。

たとえ全員が同じ方向を見ていても、「私は違う」と言える内的勇氣。

それこそが、この情報支配構造を乗り越えるための第一歩である。

意識とは「思考」ではなく、「感じる力」でもある。

そして、それは集団と響き合いながら、ある“氣の場”を形成する。

私たちは今、その“場”を取り戻す時代にいるのだ。

 

■おわりに──“情報の外”へ

 
これからの未来、大衆はますます“制度”と“情報”の中に取り込まれていく。

学校教育から医療、行政手続き、日常の買い物に至るまで、あらゆる場面が「管理」と「監視」に結びついている。

そしてその管理は、どれも「便利さ」「効率」「安全」を名目として正当化される。

だが、その先にあるのは、「自ら思考せず、感じず、反応だけする存在」──つまり、“思考する家畜化”された未来像だ。

この構造から逃れる唯一の方法は、意識の共鳴場を取り戻すことである。

他者の言葉でなく、自らの内発する氣の揺らぎに耳を澄ませること。

それは非合理でも非論理でもない、「生きた論理」であり、真の直感に近い。

情報支配からの脱出とは、意識の構造そのものの再編であり、

それはまた、次の第9章で扱う「言語と記憶」の支配構造とも深く関係している。

では、また。

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