論考:科学という劇場──第5章 信じるな、見よ

論考:科学という劇場

こんにちは、\イッカクです/
今回も「論考:科学という劇場」今回は5回目です。

第5章 信じるな、見よ──脱構築から自律へ

目まぐるしく移り変わる世界情勢。

アメリカの関税政策や中東の軍事衝突、

日本における政党の分裂と再編──

我々の眼前には、常に“ニュース”という名のドラマが繰り広げられている

だが、それらは果たして「現実」なのか。

あるいは、現実に見せかけられた“演出”ではないのか──。

パンデミックも、戦争も、経済危機も、政治の瓦解も。

そのすべてが、
何者かの意図によって描かれた筋書きであるとしたら?

我々は、その舞台の“観客”として誘導され、
反応し、感情を消費させられてきたに過ぎないのではないか。

ここで改めて問うべきは、

「信じる」とは何かである。

「科学を信じる」

「専門家を信じる」

「自民党だから大丈夫」

「トランプなら救世主かもしれない」──

これらの“信じる”という行為は、しばしば思考停止の入り口となる。

それは、責任を誰かに預けるという無意識の選択だ。

だが、その“誰か”は果たして、

我々と同じ目線で世界を見ている存在だろうか?

支配構造とは、暴力だけで成り立つものではない。

「信じさせること」こそが、最も強力な統治の手段なのだ。

かつて宗教が人々を支配したように、

現代では「科学」が新たな神の座に就いた。

そして、「政治的正しさ」「専門家の意見」「事実確認済みの報道」が、

絶対的な価値として提示されることで、
“思考する自由”そのものが奪われている

ここで我々がすべきは、すべてを疑うことではない。

必要なのは、「信じる」ではなく、“見極める”という視点の転換である。

  • 誰が何を語っているのか

  • それはどの立場から発せられているのか

  • 何を前提として構築された論理なのか

  • そこに“利害”は介在していないか

こうした問いを自らに投げかけ、

自分自身の感性と経験を通して再検証する姿勢こそが、

脱構築の第一歩となる。

舞台の外に立つということは、孤独を伴う。

多数派の“正しさ”から距離を取り、

ラベルを拒否し、思考の自由を引き受けるということだ。

だが、それこそが自律という生き方であり、

いま、我々が取り戻すべき最も重要な精神の柱である。

パンデミックを信じ、

戦争報道を信じ、

政権交代を信じ、

通貨の改革を信じ、

新たな指導者を信じる──

そのたびに、我々は「演出された希望」に身を委ねてきた。

そして、その希望は何度も裏切られてきた。

だからこそ、いま我々に必要なのは、

他者や制度を信じることではなく、自分の“氣”で感じ、見抜き、選ぶという行為である。

真に信じるべきものは、

己の中にある氣づきの感覚である。

それは誰かに説かれるものではなく、

体験と内省を通じて磨かれてゆくものだ。

次章では、そうした氣づきを共有し、響き合い、

依存から共鳴へと移行してゆく可能性について考察したい。

では、また。

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