こんにちは、\イッカクです/
今回は、「論考:科学という劇場」の2回目になります。
第2章 異論の封印と同調圧力──反証者が“存在しないこと”にされた時代
ウィルスは存在する──
それに異を唱える者がいたとしても、その声が世に届くことはほとんどない。
いや、正確に言えば、「届かないようにされている」。
サム・ベイリー医師やアンドリュー・カウフマン博士のように、
ウィルス学そのものに疑義を呈する研究者は、決して少数ではない。
彼らは実名で論文を発表し、具体的な反証を提示している。
それでもなお、彼らの存在は
大手メディアや医療機関の言説から完全に排除されてきた。
まるで、最初から“いなかったこと”にするかのように。
かつての科学には、異論が歓迎される空気があった。
反証が許され、議論が進み、知見が深化していく。
それこそが、科学という営みの本質だったはずである。
ところが近年、特に2020年以降のパンデミック下において、
科学は急速に“統治の道具”へと変質していった。
感染症対策という名のもとに、
マスク着用やロックダウン、ワクチン接種が推奨され、
それに対する異論は「非科学的」「反社会的」とラベリングされた。
SNSでは検閲が行われ、検索エンジンからは反対意見の情報が排除された。
結果として、不正選挙のように
世間は「異論が無い=全員が同意している」と錯覚していく。
それはまるで、舞台上に一つの脚本しか存在しない“劇場”のようだった。
さらに恐ろしいのは、この同調圧力が国家や企業といった組織だけでなく、
市民同士のあいだにも波及していったことである。
マスクをしない者を睨む視線。
ワクチンに疑問を持つ者を遠ざける態度。
「あなたのせいで感染が広がる」と告げる貼り紙──
それは科学に基づく合理性ではなく、“恐怖”という感情に操作された反応だった。
そして、この空氣を作り出すのに最も効果的だったのが、
「陰謀論」というレッテル貼りである。
たとえどれだけ論理的で丁寧な異論であっても、
一度「陰謀論者」とされれば、その内容は精査されることなく却下される。
人々は中身を見る前に、ラベルだけで判断する習慣を身につけてしまった。
これは知的思考の崩壊であると同時に、
社会の精神的自由が奪われた瞬間でもあった。
なぜここまで異論を封じる必要があったのか?
それは、ウィルスの存在や
パンデミック政策の正当性に揺らぎが出れば、
その背後にある統治構造──つまり、
「科学の名を借りた支配の設計図」が露呈してしまうからである。
だからこそ、その根幹にある前提は、
絶対に疑われてはならなかった。
それが、この時代の“科学という劇場”の最大のタブーだった。
疑う者は舞台の外へ、
問いかける者は「いないこと」に。
この“封印の仕組み”を見抜くことができなければ、
私たちはいつまでも
“演出された現実”を本物と信じて生き続けることになる。
だが、本当に大切なのは、
台本の外にある世界を、自らの眼で見つめ直す勇氣を持つことだ。
では、また。