第6章:制度の語りと市民の問い
「それは、誰が決めたのか?」
「なぜ、私たちに説明されなかったのか?」
「その制度は、誰のためにあるのか?」
私は、何度も問い直してきた。
行政の発表、国際機関の報告、
専門家の言葉
──それらが、あたかも絶対的な正しさを持つかのように語られるたびに、
私は立ち止まり、裏側を見ようとする。
制度は、語る。
だが、その語りは往々にして、
構造的な選択と排除を含んでいる。
JICAの移民政策、
国際協力の名のもとに進められる地域介入、
そして「善意」の仮面をかぶった認知戦
──それらは、制度の語りの中で、都合よく整理され、説明される。
だが、私は知っている。
語られなかった声があることを。
沈黙させられた歴史があることを。
制度の語りが、
常に「説明責任」と「透明性」を
伴っているわけではないことを。
だからこそ、私は問う。
市民として、倫理的抵抗者として、
そして歴史的文脈を重んじる者として。
制度の語りに対して、
私たちは語り返す必要がある。
SNSで、ブログで、対話の場で。
構造的な問題提起を行い、
説明責任を求め、
透明性の欠如を暴き出す。
それは、単なる批判ではない。
制度の本質を照らし出す、知的な闘いである。
語り口は、武器になる。
冷静な分析と倫理的怒りを込めた言葉は、
制度の仮面を剥がす力を持つ。私は、その言葉を紡ぎ続ける。
制度の語りに沈黙しないために。
市民の声が、制度を問い直す力となるために。
結語:市民の声が制度を揺るがす
こんな不都合な政治・経済社会になってしまったのは、
誰かのせい──そう言って、
私たちは責任を放棄してきたのではないか。
「自民党が悪い」
「あの政治家がダメだ」
──そう言って、批判を投げるだけで、
自らの参画を怠ってきたのではないのか。
(どうせ…と、あきらめたら、そこで終わりでは?)
政治とは、市民が自ら関わってこそ成立するものですよね。
他人任せの批判に明け暮れることは、
結局のところ「依存」にほかならないです。
誰か、私たちの思う通りに動いてくれる人間が現れないかなぁ…
──そんな希望的観測にすがることは、
無責任の延長線上にあるのです。
だが、今や私たちには武器がある。
SNSという、
言葉を届ける力がある。
「ペンは銃より強し」──その言葉は、
今や「SNSの声は悪しき為政者より強し」と
言い換えられる時代に来ている。
制度の語りに沈黙するのではなく、
市民が語り返す時だ。
構造を問い、
倫理を突き、
歴史の文脈を踏まえた言葉を発する時だ。
このシリーズの語りは、
制度の仮面を剥がすための知的な闘いだった。
そしてその闘いは、
ここで終わるのではない。
SNSという場で、
ブログという場で、
日々の対話の中で、続いていく。
市民が語ることで、
制度は揺らぐ。
市民が問うことで、
政治は変わる。
市民が責任を引き受けることで、社会は再構築される。
だから私は、語り続ける。
依存ではなく、参画の言葉を。
批判ではなく、構造への問いを。
沈黙ではなく、倫理的抵抗の声を。
この不都合な社会を変える力は、私たちの中にある。
では、また。
完。