第6章 「多様性」の名のもとに
■「多様性」が意味するもの
みなさん、「ダイバーシティ」や「多様性」という言葉を耳にすると、どんな印象を持ちますか?
おそらく、平等・包摂・みんなが認められる社会──そんな前向きなイメージが浮かぶでしょう。
もともと多様性の理念は、
差別を減らし、誰もが能力を発揮できる環境をつくるために生まれました。
その意味で、必要な場面では確かに有効です。
しかし現実には、この言葉が別の用途で使われてしまう危うさがあるのです。
■急進フェミニズムとの接点
第5章で触れた急進フェミニズムは、
「性差そのものを社会的な構築物」として否定し、
異論を封じる方向に進みました。
そこに「多様性」という看板が加わると、運動は一気に拡大します。
批判すると「差別主義者」とレッテルを貼られる
異論を唱えると「排除の対象」にされる
結果として、誰も口を開けなくなる
こうして「多様性」の名のもとに、
実際には単一の価値観への同調圧力として強まっていくのです。
■ポリコレと融合する仕組み
ここで「ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)」が絡んできます。
多様性を守るという大義名分のもとで、
ポリコレは言葉の使用や思想の範囲を規制する道具になりました。
例えば、
歴史的な文学作品の改変や削除
大学での自由な討論の萎縮
SNSでの言葉狩り
これらはすべて、「誰かを傷つけないため」という理由で
正当化されます。
しかし本質的には、
文化的アイデンティティを解体し、監視社会を進める装置へと
変貌しているのです。
■日本社会への影響
日本でも「多様性」のスローガンは、行政や教育現場に急速に入り込んでいます。
一見すると進歩的に見えますが、
実際には次のような危険が潜んでいます。
日本固有の伝統や価値観が「不適切」とされる
社会的摩擦や分断が深まり、かえって不寛容が広がる
外部からの思想輸入によって、文化的自立性が失われる
つまり「多様性を守る」という名目で、
多様性そのものを破壊する逆説が起きているのです。
■「本当の多様性」とは
ここで考えたいのは、多様性は本当に外から与えられるものなのか?
という問いです。
本来の多様性とは、
異なる意見が共存できること
歴史や伝統を尊重しつつ、新しい価値観も加わること
互いに批判や議論ができる自由があること
こうした姿にこそ意味があるはずです。
つまり、多様性とは管理や統制によって作られるものではなく、
自然な社会的交流の中で育まれるものなのです。
■まとめ──「誰のための多様性か」
多様性という言葉は、とても耳ざわりがよく、正義のように響きます。
しかし、そこに監視・規制・統制が入り込むと、
まるで逆の作用を持ち始めます。
私たちが見抜くべきは、
誰が「多様性」の意味を決めているのか
その裏にどんな意図や利益があるのか
本当に社会を豊かにする方向へ使われているのか
という点です。
「多様性」という旗印の下で、実際には単一の価値観を押しつける動き。
これを見過ごさず、
真に開かれた社会を考えることが、
これからの私たちに求められているのではないでしょうか。