こんにちは、\イッカク です。/
今回は「国民を置き去りにしてしまう日本の構造シリーズ」第5回目。
なぜ日本では
「基準を示す人」が嫌われるのか
はじめに
前回(第4回)では、
「責任の不可視化」という構造を扱った。
政治や制度の現場で、誰が決め、
誰が引き受けるのかが見えなくなるとき、
言語は核心を避け、説明は拡散し、判断は宙づりになる。
では、その状態で社会はどのように意思決定を行っているのか。
本稿では、
日本社会において顕著な現象――「基準を示す人が嫌われる」
という傾向を、評価を下すことなく、構造として記述する。
1. 評価不能社会とは何か
ここでいう「評価不能」とは、
人や政策を評価してはいけない、という規範
評価の結果が一致しない、という意見対立
を指さない。
評価のための基準そのものが共有・接続されない状態を指す。
評価が存在しないのではない。むしろ、
評価は常に行われている
しかし、その根拠が明示されない
という構造が定着している。
2. 「基準を示す人」が嫌われる理由
日本社会では、次のような人物像が反感を招きやすい。
評価軸を明確に言語化する
判断基準を先に提示する
良否・可否を基準に照らして整理する
これは、その基準が妥当かどうか以前の問題である。
構造的に見ると、
基準提示そのものが、
既存の接続不全を露呈させてしまうためだ。
基準が示されると、
誰が判断したのか
どの指標を用いたのか
その判断に誰が責任を持つのか
が可視化される。
これは、責任を曖昧に保ってきた構造と衝突する。
3. 決定指標の非接続
日本社会の意思決定では、主に次の指標が参照されてきた。
倫理
正義
合理性
重要なのは、これらが価値としてではなく、
決定指標として用いられている点である。
しかし現状では、
倫理は倫理として単独で語られ
正義は正義として単独で主張され
合理性は合理性として切り出される
それぞれが接続されないまま、
場面ごとに都合よく参照される。
この状態では、共通の基準を提示すること自体が困難になる。
4. 基準が共有されない社会で起きること
決定指標が接続されない社会では、次の現象が常態化する。
結論は出るが、理由が残らない
反対意見はあるが、論点が噛み合わない
批判は飛ぶが、評価基準は示されない
その結果、
「基準を示す人」=空気を壊す人
という位置づけが生まれる。
これは人物評価ではなく、構造的役割の問題である。
5. 評価を避けているのではない
しばしば、日本社会は「評価を避ける社会」と語られる。
しかし構造的には逆で、
評価は常に行われている
ただし、評価の根拠が言語化されない
という状態にある。
評価不能社会とは、
評価しない社会ではなく、
評価を引き受けられない社会
である。
おわりに(次回への接続)
基準が共有されず、決定指標が接続されない社会では、
誰も間違えない
しかし、誰も責任を持たない
という安定が生まれる。
次回は、この構造が
政治
メディア
大衆的言説
において、どのように再生産されているのかを扱う。
「なぜ“語ること”自体が信頼されなくなったのか」
そこが、次の焦点となる。
つづく

