第4回:責任の不可視化――政治家の言語はなぜ核心を避けるのか

国民を置き去りにしてしまう日本の構造

こんにちは、\イッカク です。/
今回は「国民を置き去りにしてしまう日本の構造シリーズ」第4回目。

第4回:責任の不可視化
――政治家の言語はなぜ核心を避けるのか


はじめに

第3回では、制度OSと運用OSが同じIntentionに接続されないまま動くとき、
国家が「説明しているようで、何も説明していない」
状態に陥る構造を整理した。

本稿では、その断絶が最も露骨に現れる場所――

政治家の言語

に焦点を当てる。

なぜ政治の言葉は、いつも核心を避けるのか。
なぜ「誰が決めたのか」が見えなくなるのか。
それは話し方や資質の問題ではなく、
構造的に要請された言語だからである。


政治の言葉が曖昧になる理由

政治の場で頻繁に使われる表現がある。

  • 「総合的に判断した」

  • 「専門家の意見を踏まえた」

  • 「検討を重ねた結果」

  • 「必要な対応を行っていく」

これらは一見、
慎重で誠実な言葉に見える。しかし、共通点がある。

主語が存在しないのである。

誰が判断したのか。
どの選択肢を排除したのか。
その結果、誰が責任を負うのか。

それらが言語上、意図的に消されている。


責任が消える構造

この曖昧さは、偶然でも逃げでもない。

制度OSと運用OSが断絶している状態では、

  • 制度OS:手続きの正当性を守りたい

  • 運用OS:現実対応の裁量を確保したい

という、異なる自己保存が働く。

この二つを同時に満たすために生まれるのが、
責任主体を明示しない言語である。

誰かが決めたと言えば、
制度か運用のどちらかが矛盾を露呈してしまう。

だから、
「決定は存在するが、決定者はいない」
という奇妙な状態が、言語として生成される。


国民はなぜ「観測者」になるのか

政治の言葉から主語が消えると、
国民は意思決定の当事者ではいられなくなる。

  • 判断材料は与えられない

  • 選択肢の比較も示されない

  • 失敗した場合の責任も所在不明

結果として、国民に残される役割は、

結果を眺め、感想を述べること

だけになる。

これは無関心の問題ではない。
当事者性を持てない構造の帰結である。


アトラス理論の構造で解釈すると

アトラス理論の枠組みで整理すると、次の状態が観測される。

  • Intention:政治側で閉じたまま共有されない

  • Information:言語が抽象化され、判断材料にならない

  • Imagination:不信・無力感・諦観として噴出

この状態は明確に乱列である。

重要なのは、
「説明している量」や「会見の回数」ではなく、
Intentionに接続された説明が存在するかという点だ。


言語は制度の排気口である

政治家の言葉は、個人の性格表現ではない。

それは、
制度OSと運用OSの矛盾を外部に漏らさないための、
排気装置として機能している。

圧力が高まるほど、
言語は抽象化され、無害化され、
誰も責任を問えない形に整形される。

この仕組みを理解しない限り、
「もっと説明しろ」という要求は、
量だけが増えて中身が変わらない結果を生む。


次へ向けて

では、国民が再び当事者に戻るためには、
何が必要なのか。

次回は、

  • 責任を可視化する制度設計

  • 情報がIntentionに接続される条件

  • 国民が差し戻し可能な制度的安全弁

について扱う。

制度は壊すものではない。
壊れにくくする設計が必要なのだ。


※本シリーズは、特定の思想や政党の評価を目的とせず、構造の記述に徹するものである。
つづく。

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