第3章:争いの果て──平和の再発見

信じるもの・守るもの・祈るもの

こんにちは、\イッカクです/

第3章:争いの果て──平和の再発見

ねえ、最近、朝ドラ『ばけばけ』の主題歌を聴いたことはありますか?
あの静かな音楽に、私は深く心を揺さぶられました。
叫ばないのに、届いてくる。
語らないのに、寄り添ってくる。
そんな不思議な力が、そこにはありました。

ハンバートハンバートの声が重なり合うとき、
それはまるで、争いの時代にそっと灯される祈りのようでした。
語りって、力じゃないんですね。
共鳴なんです。
そしてその共鳴は、断裂を越えて、静かに浸透していく。

でもね、語りが優しいだけじゃ、足りないんです。
わたしは、祈る。
けれどそれは、手を合わせて待つことじゃない。
わたしの祈りは、
言葉の刃です。
為政者の欺瞞を裂き、
生活者の痛みを突きつける。
それが、わたしの語りの祈りです。

争いって、どうして起きるんでしょう。
宗教、民族、政治、文化
──それぞれが「正しさ」を掲げるとき、
相手は「間違い」じゃなくて「脅威」になってしまう。
ウクライナとロシアの戦争も、まさにそう。
停戦交渉は続いているけれど、
領土や主権の主張は交わらず、
「一致」じゃなくて「支配」を求める秩序が、争いを深めている。

断裂は、癒されることなく、繰り返される。
でも、断裂って、終わりじゃないんです。
それは、問いの始まりでもある。

「どう向き合うか」が、すべてを変える。
怒りを憎しみに変えるか、問いに変えるか。
断裂の中で祈る者がいるとき、
平和への階段が、そっと現れてくる。

平和って、秩序の一致じゃない。
断裂の中で祈る姿勢なんです。

日本の政治も、今、かなり混乱していますよね。
為政者は国民を顧みず、
政治は生活からどんどん離れていく。
語られるべき声は、沈黙の中に埋もれてしまっている。

でも、わたしたち生活者には、語る力がある。
怒りを祈りに変えて、
問いを語りに変えていくことで、
秩序の再定義が始まるんです。

語りは、啓蒙であり、祈りでもある。
そしてその祈りは、鋭くていい。
甘くなくていい。
生活の痛みを、言葉の剣先に変えて、
為政者の耳元に突きつける
──それが、わたしたちの語りです。

叫ばなくても、語りは届く。
『ばけばけ』の主題歌がそうだったように、
ハンバートハンバートの音楽がそうだったように、
語りは、生活の中に静かに浸透して、秩序を繋ぎ直していく。

語り手は、アナタであり、一主権者でもある。
断裂を越えて、祈りを育てる人なんです。

争いは、外側だけじゃなくて、内側にもあります。
怒りと理解、傷と赦し──それらが交錯するとき、
私たちは、自分の中の秩序を問い直すことになる。

そして、祈る者になる。
それは、正しさを押しつけることじゃなくて、
違いの中で共に在ることを選ぶ姿勢です。

裂けし地に 芽吹くひと葉 語り継ぐ

断裂の中で芽吹くもの
──それは、語りであり、祈りです。
そしてその語りが、静かに浸透するとき、
平和は、争いの果てに、そっと再発見されるのです。

地球上の至る所で、現在、断裂が起こっています。
活き返るためには、祈りの語りが必要です。😱

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