第4章:聖書を掲げる祈り

信じるもの・守るもの・祈るもの

こんにちは、\イッカクです/

今回は、「信じるもの・守るもの・祈るもの」シリーズ第4章です。
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制度は、祈りを見ていなかった。
それは、設計の段階からそうだった。
対象は「人間」ではなく、
「処理可能な情報」だったんです。
我々庶民の祈りは、帳簿の余白にしか存在できなかった。

あなたも、感じたことがあるだろう。
制度の窓口で、言葉が届かない感覚を。
申請書に書ききれなかった思いを。
「該当なし」と言われた瞬間に、
自分の存在そのものが、制度の外に置かれたような感覚を。

制度は、風見鶏のように風を測る。
その風が「世論」なのか「予算」なのかは、
時と場合による。
けれど、風の意味を問うことはない。
風が吹けば、向きを変える。 それだけだ。

祈りは、風に抗う。
祈りは、風の中で立ち止まり、語ろうとする。
その語りは、制度の言語には収まらない。
だから、祈りは象徴を掲げる。 その象徴が、「聖書」である。

聖書は、制度の帳簿とは違う。
それは、信仰の記録であり、魂の痕跡だ。
それは、処理されるために書かれたものではない。
それは、語られなかった祈りを、記すために生まれた。

この章では、祈りが制度に向かって語りかける。
「精度よ、私は、あなたに勝ちたいわけではない。  
私は、あなたに届けたいだけだ。」

制度は、帳簿を開く。
祈りは、聖書を掲げる。
その間に、風が吹く。
風は、制度の論理を運びながら、
祈りの声をかき消そうとする。

けれど、聖書は風に揺れない。
それは、重みを持った言葉だからだ。
それは、制度が理解できない言語で語られている。
それは、帳簿に載らない真実を記している。

あなたが守りたいものは、
誰かの祈りを踏みつけていないか。
あなたが信じる制度は、誰かの沈黙を強いていないか。
もしそうなら、聖書を掲げる時だ。
それは、抗議ではない。 それは、誠実な問いかけだ。

制度の中にも、風見鶏はいる。
その者は、風の向きを測りながら、 祈りの声を聞こうとする。
その者は、帳簿の余白に、祈りの痕跡を残そうとする。

そして、あなたは、どちらを選ぶのか。
風に流される制度か。
風に抗う祈りか。

聖書を掲げる者は、制度の外に立つ。
その者は、制度の言葉を借りずに語る。
その者は、争いを望まず、対話を求める。
その者は、祈りの形を変える。
それは、声ではなく、記された言葉。
それは、論理ではなく、象徴。 それは、勝利ではなく、誠実。

制度は、聖書を見て戸惑う。
それは、審査できない言葉。
それは、却下できない祈り。
それは、風に流されない信仰。

祈りは、制度に届こうとする。
それは、戦いではない。
それは、語りかけだ。
それは、制度が見落とした祈りの痕跡を、
もう一度、語ろうとする試みだ。

この章の終わりに、私はこう記す。
制度が見落とした祈りの痕跡
──それこそが、語るべき言葉だった。
それは、帳簿には載らない。
けれど、魂には届く。

そして、制度に向かって、静かにこう告げた。
「ぎゃふん。」
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つづく。

 
 
 
 
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