空席国家から設計参加へ

アトラス理論で読む

こんにちは、\イッカク です。/
今回は日本が「空席国家」であることからの深堀りです。

先ず、コチラから

日本はなぜ迷っているのか
――空席国家から設計参加へ

日本という国はいま、
「間違った方向に突き進んでいる」というよりも、
どこへ向かうのかを決めきれないまま漂流している状態に近い。

外交、経済、安全保障、社会保障
――個別の政策論争は連日行われているが、
それらを貫く
一本の軸が見えない。
結果として、
議論は常に対症療法に終始し、
「なぜそうするのか」という
上位の問いが共有されないまま更新され続けている。

この状態を一言で表すなら、
日本は自ら国家としての席を空けている

「空席」という構造

国家には、本来「主語」が必要だ。

それは「我々はどのように生きたいのか」
「どのような価値を守り、何を引き受けるのか」という、
設計の起点となる問いである。

しかし日本では、
この主語が長く曖昧にされたまま放置されてきた。
憲法前文という
高度に抽象化された理念は存在しているが、
それを政治や政策の設計起点として使う試みは、
戦後ほとんど行われていない。

結果として、日本は次のような状態に陥っている。

  • 外交では
    「国際社会の要請」に適応することが目的化する

  • 経済では
    「外圧への対応」が政策の正当化理由になる

  • 社会保障では
    「破綻を防ぐための調整」が繰り返される

これは主体的選択の連続ではなく、
空席に誰かが座り続けている状態だ。

国際政治の現実では、
空いた席は必ず埋められる。
それが同盟国であれ、
市場原理であれ、
グローバル資本であれ、
日本はその決定を後追いで受け取る側に回ってきた。

なぜ迷い続けるのか

日本が迷っている理由は、
能力不足でも民度の問題でもない。
最大の要因は、
上位設計が共有されていないことにある。

官僚も政治家も、個別分野では優秀だ。
しかし
「この国をどういう性格の国家として維持するのか」
という問いが共有されていないため、
政策は分野ごとに最適化され、全体としてはちぐはぐになる。

その結果、
国民側には違和感が蓄積する。

負担は増えるのに、
どこへ向かっているのかは見えない。
説明はされるが、納得はできない。

この違和感は、間違いではない。
それは社会全体のズレを検知する、健全な感情反応でもある。

感情と政策の距離

ただし注意すべき点がある。
感情は正しいが、感情は揺れる

怒りや不安を、
即座に政策要求へと変換してしまうと、
設計は再び外部に委ねられる。
必要なのは、

感情 → 言語化 → 構造化 → 政策

という順序である。
言語化と構造化は、政策要求の代替ではない。
政策要求の前提条件だ。

このプロセスを飛ばしたとき、
国家は再び「媒介型」となり、
外部の意図を実装する装置に変質する。

れいわ新選組の位置づけ

ところで、れいわ新選組は、
この構造の中で独特の役割を果たしている。

それは
「答えを完成させる主体」というより、
社会に溜まったズレを可視化する存在だ。

感情を伴う強い言葉は、
ときに誤解されやすい。

しかしそれは、意図なき扇動というより、
このままでいいのか」という問いを
社会に突き返す異常検知に近い。

れいわを全面的な正解とみなす必要はない。

同時に、単なる感情政党として切り捨てるのも正確ではない。

重要なのは、そこから発せられる違和感を、
再び国民自身の設計思考へと戻せるかどうかだ。

国民が今、認識すべきこと

「主語を取り戻す」とは、誰かに決断を委ねることではない。
ましてや、即座に統一見解を作ることでもない。

まず必要なのは、問いを具体化することだ。
たとえば、次のような問いが考えられる。

  • エネルギー自給率を、どの水準まで引き上げたいのか

  • 人口減少を、どこまで受け入れる国家なのか

  • 防衛費をGDP比で何%に設定するのか、その理由は何か

  • 成長と再分配のどちらを、どの局面で優先するのか

  • 移民・多文化共生を、どの範囲まで社会として引き受けるのか

これらは答えを急ぐための問いではない。
議論を始めるための座標である。

静かな設計意志の回復

日本に今必要なのは、熱狂でも冷笑でもない。
「問いを問いとして持ち続ける力」だ。

空席を埋めるとは、強いリーダーにすべてを委ねることではない。
自分たちがその席に座る覚悟を持つことでもある。

その第一歩は、
「我々はどう生きたいのか」という主語を、
手放さずに問い続けること。

設計は、そこからしか始まらない。


では、また。

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