こんにちは、\イッカク です。/
下記は、ロシア在住さんからの動画です。
なぜ、トランプは戦争をするのか
― 国家の公共性が、取引化された権力運用へ置き換わるとき ―
世界の政治を見ていると、
しばしば「国家が暴走している」のか、
「民間権力が国家を操っている」のか、
判別がつきにくくなる瞬間があります。
近年のトランプ周辺の動きを見ていると、
まさにその曖昧さが濃くなっているように見えます。
特に、イランとの戦争可能性を考えるとき、
単純に「アメリカ国家が戦争を決める」と捉えるだけでは足りません。
また逆に、「誰かが裏で操っている」と短絡するのも危ういでしょう。
重要なのは、もっと構造的な変化です。
それは、国家が公共機関として動くというより、
特定の関係回路に沿って
取引的に運用される度合いが強まっているのではないか、ということです。
ここを見誤ると、戦争の意味そのものを取り違えます。
「国家の意思決定」が見えにくくなっている
本来、近代国家の戦争判断は、少なくとも建前の上では、
- 国家安全保障上の必要
- 国際法上の正当化
- 同盟との整合
- 国内制度上の手続き
- 国民への説明責任
といった公共的手順の中で扱われるべきものです。
しかし、現在のトランプ型の統治スタイルを見ていると、
その判断が必ずしもこのような
一般原則だけで動いているようには見えません。
むしろ見えてくるのは、
誰が近いか
誰が影響を与えられるか
どの勢力がその局面で利益を得るか
という、個別交渉的な力学です。
このとき、戦争は
「国家目的の遂行」ではなく、
複数の回路が交差する中で押し出される政策選択になります。
つまり、戦争が起きるかどうかは、
「国家が合理的に必要と判断したか」だけではなく、
国家の判断装置そのものが、
誰に接続されているか
によって左右されやすくなるのです。
イランとの戦争は、誰にとって都合がよいのか
ここで大切なのは、特定の団体や個人を
断定することではありません。
見るべきなのは、どのようなタイプの主体が、
対イラン強硬化から利益を得やすいかという構造です。
例えば、
戦争や軍事的緊張の高まりによって
利益を得る主体には、いくつかの型があります。
第一に、安全保障の危機演出によって国内統合を強めたい政治勢力です。
外部の敵は、内部の分断を一時的に覆い隠します。
政治的求心力が弱まっている局面ほど、
「強い指導者」の演出と外部危機は結び付きやすい。
第二に、軍事・防衛・地政学的緊張そのものを資源化する主体です。
戦争が起きるかどうか以前に、「戦争の可能性」があるだけで、予算、契約、影響力、発言権が増す主体が存在します。
第三に、中東秩序の再編を望む外部勢力です。
イランという存在が地域秩序上の障害であると考える主体にとって、アメリカの強硬化は代理的な利益になります。
第四に、国家と民間の境界が曖昧になったとき、その“継ぎ目”を利用できる媒介者です。
外交、安全保障、資源、軍需、金融、情報、宗教的物語、思想的正当化。
こうした異なる領域をつなげられる主体は、緊張局面で一気に価値を持ちます。
したがって、受益者は単純ではありません。
戦争は「国家が得をする」のでも「一企業が得をする」のでもなく、
危機によって国家の判断回路へ接続しやすくなる主体群が利益を得る構造を持ちます。
トランプが戦争を選ぶとき、それは国家意思か、取引の帰結か
ここで見えてくるのは、トランプという政治スタイルの本質です。
従来の国家運営が、法・制度・同盟・官僚制を通じて意思決定を安定化させるものだとすれば、トランプ型の特徴は、
トップの裁量、個別交渉、関係近接性、演出性
にあります。
このスタイルでは、国家の政策は「一般原則の適用」というより、
その都度の力関係の取引結果に近づきます。
そうなると、イランとの戦争もまた、国家が熟慮して決めるというより、
- 国内支持の再結集
- 強硬派への応答
- 同盟国や外部勢力へのシグナル
- 軍事・資源・金融市場への波及
- 自身の指導者像の演出
といった複数の要因が、一つの決断へ圧縮される現象として起きやすくなります。
つまり、ここで危険なのは、好戦的か平和主義かという性格論ではありません。
もっと深い危険は、戦争判断そのものが公共的熟議ではなく、権力運用の一場面に変質することです。
「国家の私物化」より深い問題
この現象を「国家の私物化」と呼ぶこともできます。
しかし、実際にはもう少し精密に見た方がよいでしょう。
問題は、国家が完全に誰かの私物になっていることではありません。
むしろ、国家は依然として巨大で、公的制度も残り、軍事力も外交力も保持しています。
だが、その作動原理が変わる。
本来、国家は公共性に基づき、一般性を持つルールで動くべきです。
ところが、その内部で進んでいるのが、
- 例外処理
- 個別交渉
- 近接性への依存
- トップ判断
- 演出を通じた正当化
であるならば、国家は見かけ上そのままでも、中身は別のものへ移りつつある。
これは、単なる国家の私物化ではなく、
国家の公共性が、取引化された権力運用へ置き換わる現象
です。
そして戦争は、その変質が最も露骨に現れる領域です。
なぜなら戦争は、最も大きな国家権力の発動であると同時に、最も大きな例外処理でもあるからです。
日本から見るべきこと
この問題は、アメリカの話だけではありません。
むしろ日本にとって重要なのは、こうした構造変化を「対岸の火事」として見ないことです。
もしアメリカの戦争判断が、公共的な国家意思というより、複数の非国家的回路が輻輳した取引結果として現れるなら、日本はその余波を極めて強く受けます。
にもかかわらず、日本側の政治がその構造を十分に読み解けず、ただ「同盟」「日米関係」「安全保障環境」という言葉だけで追随するなら、日本の国家判断もまた他者の回路に巻き込まれます。
そのとき日本は、主体的に参戦するのではなく、
外部で設計された構造の媒介者
として機能してしまう危険があります。
ここで問うべきは、アメリカが正しいか間違っているかだけではありません。
問うべきは、その意思決定がどの構造に支えられているのかです。
結び
トランプがイランとの戦争に向かうのか。
その問いに対して、単に「やる」「やらない」と予言のように答えることはできません。
しかし、ひとつ言えることがあります。
もし国家が公共原理ではなく、個別取引と近接性によって動く度合いを強めているなら、戦争判断は以前より不安定になります。
それは、国家が弱くなったからではありません。
逆です。
国家権力が、公共性を失ったまま運用され得るからです。
そこにあるのは、国家の消滅ではありません。
国家の肥大でもありません。
より不気味なのは、
公共機関としての国家が後退しながら、権力装置としての国家だけが鋭く残ること
です。
トランプとイランの問題は、その危うさを映す鏡なのかもしれません。
では、また。

