第二章 国家機構と民意の断絶。
政治・統治システムの盲点
現代日本の政治と行政は、
果たして本当に「民意」を反映しているのだろうか。
そう問われたとき、
多くの人々は、違和感や不信感を抱かざるを得ないはずである。
選挙制度、議会制民主主義、行政の中立性──。
これらは建前としては機能している。
だが、現実には、民意との間に深い断絶が生まれてしまっている。
問題の本質は、「制度の形骸化」にある。
そしてさらに深く掘り下げれば、民意の不在ではなく、
民意が制度のなかで消失してしまう構造
にこそ、盲点がある。
■ 選挙と代表制の限界
多くの人が「選挙に行ったから民意が反映されている」と信じている。
しかし、選挙は「白紙委任」にすぎない。
候補者が当選した瞬間、
彼らは政党や官僚との関係性に基づいて動き始める。
一票を投じた国民が「政策の実行」に介入する術はない。
その結果、
私たちは「投票というアリバイ」のもと、
制度的に無力な存在へと変えられてしまっているのです。
■ 政治家と官僚の癒着構造
本来、政治家は民意を汲み、
官僚はその執行役に徹するはずだった。
しかし今では、官僚機構が
“実質的な国家の支配者”
となり、政治家はその枠内でしか動けない。
行政文書の改竄、
統計の恣意的操作、
政権への忖度。
これらの事例が次々と明るみに出ているにも関わらず、
制度としての責任追及は曖昧なままである。
民意は、霞が関の壁を越えることなく、霧散してしまう。
■ メディアによるフィルター
さらに問題を複雑にしているのが
「情報の流通構造」である。
多くの国民は政治や政策について、
テレビ・新聞などの既存メディアを通じて
しか知ることができない。
だが、そのメディア自体が、
政治と企業、広告主との癒着構造のなかに組み込まれている。
情報はフィルターを通し、選ばれ、加工され、
「大衆にとって都合の良い形」に再構成される。
その結果、国民は
「氣づくことすらできない」という状態に陥る。
■ 「主権在民」の空洞化
日本国憲法は「主権は国民にある」と謳っている。
しかしその実態は、
「一部エリートによる国家運営」だと言っても過言ではない。
一票の格差、
国会の空転、
世襲政治家の増加、
政党助成金制度──
こうした構造はすべて、
「国民から政治を遠ざける仕組み」として
巧妙に組み込まれている。
国民が望んでも実現しない政策。
国民が望んでも止まらない増税や利権。
こうした例を挙げれば枚挙にいとまがない。
■ 政治を再び「生活」に取り戻すために
では、どうすればよいのか?
それは、
「政治をプロの手から取り戻し、
生活の中に引き戻すこと」である。
政治とは本来、
日常の延長線上にある共同体の運営
であるはずだ。
小さな地域の声、個々の生活者の氣づき、
そして日々の選択。
これらを起点に、
新たな自治のあり方を模索することが求められている。
いま必要なのは、
「誰かが変えてくれる」のを待つ姿勢ではない。
むしろ、
「自分が氣づくことで社会が変わる」
ことへの確信である。
■ 結びに代えて
制度の盲点とは、
制度が見せかけだけの「正義」を装いながら、
本質的には
「民意を無力化する構造」であるという事実にある。
その構造を打ち破るためには、
国民一人ひとりが「氣づく」しかない。
そしてその氣づきこそが、
日本を真に再生させる原動力になる。
次の第三章では、
この構造の背後にある金融・情報支配のメカニズムに踏み込む。
マネーキングダムと呼ばれる
支配構造の実態を、可視化していくことにしよう。
つづく。