古代日本への原始キリスト教の伝来

書籍紹介


こんにちは、\イッカクです/
今回は、景教など、古代キリスト教が日本に伝来した話です。

 

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秦氏という氏族 (00:03:58) 日本史では全く取り上げないが、 数々の証拠を基にした正しい史実が存在する。 その中で特に重要な秦氏という氏族を詳細に見ていく。 そうすると、日本に入って来て日本に同化し、 日本の文化、伝統を築き上げた貴族である秦氏が、 実はユダヤ人だったということが判明する。 秦氏の基督教信仰 (00:31:17) 秦氏が建立した広隆寺や創建した神社を 詳しく検証すると、秦氏は仏教ではなく 原始基督教を信仰していたことがわかる。 そして、古来の日本の民族の宗教である 神道と非常にうまく融合させた上で、 秦氏自身はキリスト、或いはヤハウェを 拝んでいたことが推察される。 また、秦氏が代々宮司をしていた宇佐八幡宮を見てみると、 ホツマの神である応神天皇との関係性が明らかになるとともに、 伝統的な神道のものだと思っているものが、 かなり秦氏を通じて外来してきたもので宇佐の地が発祥であることもわかる。 景教について (01:04:47) いろいろな検証の結果、 秦氏の宗教は原始基督教であることがわかった。 そしてその後、景教も日本に入って来る。 信教の自由という景教の信仰形態は、 まさに秦氏と一致するもので、 土着の宗教と非常にうまく融和して トラブルを起こさないやり方は非常に模範的で、 日本がその証明になっていると言える。
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概要 今回は景教が伝来して、 聖武天皇、東大寺の大仏建立、光明皇后、空海にまで 非常に大きな影響を与えた痕跡を詳しく見ていく。 そして秦氏が平安京を作ったとされる説を検証していき、 そこで背後で働いた神々の存在を明らかにする。 さらに仏教立国を理想としていたとされる 聖徳太子の本当の姿を見ていくと、 キリスト教は紀元1、2世紀位にはもう日本に 入っていて民間レベルでも浸透していたことがわかる。 この部分を押え、後の歴史の流れの解釈へと繋げていく。 目次 1.日本への景教伝来 (00:00:00) 広く一般化しているザビエル以降が キリスト教だとする論理を覆す情報や キリスト教の痕跡となるものは、 今でも随所に残っていて確認することが出来る。 ペルシャ人の外科医で景教の宣教師である 李蜜医らの来日や、彼らが聖武天皇から 位を授けられたこと、国分寺建立の詔の中で 国分尼寺を「法華滅罪」の寺と呼んだことなどからも、 皇族に景教が広まっていったことが推測される。 また、聖武天皇の妻、光明皇后の慈善の考え方や 実践は仏教の教えではあり得ないこと、 さらに稲荷神社と関係のある密教と景教の 意外な関係性から日本が仏教国だとすることの矛盾を突く。 2.平安京を作ったのは秦氏? (00:14:39) 秦氏の土木技術、土地、遷都のための巨額の資金提供により 平安京が作られたとする根拠を詳しく読み解いていく。 また、秦氏が創建した松尾大社、下鴨神社、上賀茂神社、 延暦寺の関係性を地図上で読み解き、 加えて稲荷神社の系図からも秦氏が平安京を作った としか思えない事実が明白になる。 そしてその系図と神社の祭神を精査していくと、 平安京を作るに当たって背後で働いていた 神々の存在が明らかになる。 聖徳太子は仏教徒だったのか? (00:33:22) 聖徳太子が仏教徒ではなく キリスト教徒であったことは、 伝説の中にキリスト教が色濃く反映していることや、 側近や家庭教師がペルシャ人で キリスト教だったことからも明らかである。 ただし、時代的に景教ではなく 原始キリスト教だと考えられる。 その根拠を丁寧に見ていくと、 聖徳太子が理想としたのが仏教立国ではなく、 天皇を祭祀王とする神道国家を 目指していた事実に辿り着く。 そして、なぜ聖徳太子を暗殺してまで キリスト教を封印してきたかという 日本史最大の謎が炙り出されてくる。
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■編集後記
さて、常識とされていた キリスト教伝来がフランシスコ・ザビエルから 始まったとされる説は、真実を 隠すための説であり、わざわざ 教科書や日本のカトリック信仰に 深く刷り込まれていましたね。 今回の開眼のポイントが 原始キリスト教や景教が 日本に入ってきたことから 日本人の意識形成に 何をもたらしたのか? では、また。


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